ある幻想画家の手記

絵画、芸術について思いついたことを書き記してます。画廊はこちら『第三都市幻想画家 福本晋一 ウェブサイト』 http://www7b.biglobe.ne.jp/~fukusin/ 歴史・事件論の『たまきちの「真実とは私だ」』もやってます。https://gensougaka.hateblo.jp/ メールはshufuku@kvp.biglobe.ne.jpです。

レオナルド vs ミケランジェロ どちらが勝ったと言えるのか

 レオナルド・ダ・ヴィンチの『アンギアーリの戦い』と、ミケランジェロの『カッシーナの戦い』は、フィレンツェの同じ宮殿の同じ部屋に、同時に描かれるはずの壁画であったが、両者とも作品は残っておらず、多くの詳細がいまだ謎のままである。その謎の中で私が特に興味をひかれるのは、ミケランジェロがなぜ下絵を完成させたものの、本番の壁画を描かず、ローマ教皇の求めに応じてローマに去ってしまったかということである。

これにはふたつの説がある。ひとつは、これはふたりの対決だったのであり、ひとつはミケランジェロが下絵の段階で、レオナルドより自分のほうが上、すなわち「自分が勝った」と思ったので、もう壁画自体を描く必要はないと思ったからというもの。もうひとつは逆で、「負けた」と思ったから本番を描かずに逃げたというもの。もちろん単純に教皇聖下のお呼びなのだから、今やってる仕事だろうがほっぽらかしてローマへ向かったという筋も考えられないことはない。またこの両壁画は、55歳のレオナルドの画面が大きくてそれが「主」、30歳のミケランジェロの画面は小さくて「従」という、いわば共作だった可能性もあり(実際『戦い』と題されているがミケランジェロのほうは戦闘場面を描いたのではなかった)『対決』『腕比べ』といったものではなかったとの推測もある。しかし、当時の美術家は、現代の芸術家と違い「俺には俺の世界がある」という割り切りなどなく、腕の良し悪しが評価されるほとんど職人的世界だったわけだから、「優劣」にはこだわっていたと考える方が自然であろう。ましてや気性の激しかったミケランジェロである。
 
そう、だからこそ不思議なのだ。いかにローマ教皇のお呼びだろうと、対決これからたけなわというときになぜ去ったか。
 
実際のところミケランジェロが勝負にこだわっていたことを裏づける記録が残っている。それは、チェリーニという人物が、のちのシスティーナ礼拝堂の天井画や壁画でさえ、『カッシーナの戦い』の下絵の偉大さの半分にも及ばなかった、ミケランジェロの想像力は二度とこの下絵のレベルに達しなかった、と書き残していることだ。
 
これは重要な記述、というか尋常な表現ではない。下絵時点で、あのシスティーナ礼拝堂の倍以上のすばらしさ! ちょっと想像しにくいのだが、『カッシーナの戦い』の下絵はサンガルロによる模写(下図)が伝わっているものの、チェリーニの目利き、証言が確かなら、ミケランジェロ自身によるオリジナルの下絵は圧倒的に素晴らしいものであったと考える他はないのである。
 
実際ミケランジェロ『カッシーナの戦い』に全身全霊を投入してきたのは間違いがない。というのも、ミケランジェロひとつのプロジェクトに集中するタイプの作家であったからだ。ヴァチカンのピエタフィレンツェダビデ、そしてのちのシスティナ礼拝堂しかり。平行作業はせず、別の制作が入ると、どちらかだけを選ぶのが彼のやり方だった。
 
 
しかしそれほどまでに素晴らしいものだったからといって、ミケランジェロが下絵の時点で「勝った」と思ったかというとそうは簡単に言えない。相手は数年前、ミラノに驚嘆の壁画『最後の晩餐』を描いたレオナルド・ダ・ヴィンチなのである。
 
この『カッシーナの戦い』にはレオナルドの『最後の晩餐』の影響も見てとれる。というのは、人物描写の多様性という面で共通しているからである。それまでの絵画における複数の人物描写は同じようなしぐさの人間がたくさん描かれているだけで単純なものであった。ひとりひとりに意味のある違う動作を表現してみせたのはレオナルドがはじめてといえるのである。そういったしぐさの多様性がこの『カッシーナの戦い』にも出ている。ミケランジェロはミラノには行ってないので、レオナルドの『最後の晩餐』を実際には見ていないが、評判は聞き知っていただろう。あるいは模写されたものを見ていたかもしれない。
 
ミケランジェロがレオナルドの作品と自分のを比べてどう思ったのかを推理するには、レオナルドの『アンギアーリの戦い』の下絵がどのような出来だったかを考えなくてはならない。
 
といっても、ここからは多分に私の想像が入るが、レオナルドの下絵は、中心部の騎馬による軍旗争奪シーンこそは完璧に描かれていたが、ほかの部分は結構適当なものだったのではないかと思えるふしがあるのである。
 
レオナルドは壁画を描くのに当時あたりまえであった技法のフレスコを使うことがなかった。『最後の晩餐』はテンペラだし、この『アンギアーリの戦い』は特殊な油絵だ。これはレオナルドが遅筆で考えながら描くタイプであったからである。フレスコは最初に全体の画面を決定し、かつ本番作業に入ったら1日に描く分の漆喰を塗り、それが乾ききるその日のうちにその範囲を描き切ってしまわなければならないという非常に制約のある技法である。とにかく常に決めてかからねばならないのだ。これが遅筆のレオナルドには抵抗があった。だから『最後の晩餐』はテンペラで描いたのだが、テンペラテンペラで、壁画の場合には保存性に疑問があった他、塗った先から絵具が乾いていくという特性をもっているので、実はこれもレオナルドのじっくりと描く性格にはあっていなかった。そこで『アンギアーリの戦い』では、技法的にはさらに冒険になるが、じっくりゆっくり考えながら描け、途中での変更も容易な油絵を使用することにしたのだった。
 
となるとである。『アンギアーリの戦い』の下絵は、メイン部分はそれなりに描きこんではいたものの、画面周辺の部分は結構アバウトにしておいたのではないかと思えるのである。付属的な部分は、あとで全体を見ながらゆっくり考えようというわけだ。それはレオナルドの未完成の油絵『三王礼拝』や『聖ヒエロニムス』を見ても思える。この2点などは下描き段階で全部を決定できない絵師が無理に下描きをフィックスしようとああやこうやと考え続けたから未完成に終わったのではないか。実際『アンギアーリの戦い』の模写は中央部の騎馬による軍旗争奪シーンしか残されておらず(下図)、レオナルドの手稿によれば、遠くに見える戦闘は巻き立つ土煙で見えにくくなるはずであるなどと書き残されているのだから、やはりメイン以外の部分は、下絵ではそれほどはっきりと描いてなかったのではなかろうか。だからその部分は模写もされなかった。
 
 
対してミケランジェロの下絵はフレスコ前提のものだし、また上記のチェリーニのような大賞賛を受けるくらいだから、画面いっぱい隅々まですごい密度と精確さで描いてあったと考えられるのである。サンガルロの模写からもそれは察せられる。
 
ということはこうなる。ミケランジェロのほうはこののち、色彩配分という作業があるにせよ、基本的にあとはこの下絵どおり描くだけである。対してレオナルドのほうはこれからがまさに本番。絵がだんだんと成長、開花していきだすのだ。つまりミケランジェロは、もう下絵ですべてを出し切ってしまった。下絵そのもので比べるとレオナルドに決して負けなかった、しかし、これからの本番でその評価がくつがえるかもしれない事態となったのである。
 
ミケランジェロのほうは下絵からの上積みはあまり見込めない。むしろこの下絵こそ全力を出し切った完成作品。ならばもう本番の壁画を完成させる必要も気力も薄くなっていたかもしれない。絵の具で新たに描き起こしたら、これより出来が悪くなる可能性もある(下絵のほうがいいってことは実際よくある)。しかも使うのはフレスコ。本番は下絵みたいに、じっくり描くわけにはいかない。ならば、制作はここで終わらせるのがベスト。そう思ったのではないか。あるいはレオナルドの遅筆はすでにあまねく広まっていたから、ひとまず時間はありそうなので、とりあえず一旦作業を中断してローマへ行った。あるいは自分の下絵をもとに誰か他の者が描けばいいとも思ったのかもしれない。これも当時よくあることであった。
 
どうにせよ、ミケランジェロは下絵を公開した直後、ローマへ去っていった。そしてレオナルドのほうは制作にかかった。もし、レオナルドも、ミケランジェロのような若造に負けてたまるかい、なんて対抗心を燃やしていたのであれば、逆にこっちは是が非でも本番にかからねばならなかったわけである。実際、ミケランジェロはこの壁画に取り掛かる前に『聖家族』という絵画を完成させているが、これがまた非常にクオリティの高いもので(この絵もレオナルドの聖母子像の影響が見てとれるが)、もしレオナルドが見ていたのなら、相当対抗心を燃やさせたものであると思えるのである。
 
しかし、レオナルドが試みた「壁画に油絵を使う方法」はすぐに欠陥が明らかとなってしまう。中央の軍旗争奪シーンは何とか出来て絵具も乾かせたものの、上方の絵具は乾かずに流れ出し、結局こちらも制作は放棄されて、レオナルドは彼の第二の故郷ともいえるミラノへと去ってしまった。
 
それから数年間、この2作品の下絵はそのまま放置、そのあいだに他の画家により模写されて、それが今伝わっているわけであるが、やがてどちらも破られて消失。レオナルドの描きさしの壁画は塗りこめられたかして、宮殿のどの壁に描かれたかも分からなくなってしまった。そしてこののち、このふたりの巨匠の邂逅したエピソードはない。
 
しかしローマへ旅立って1年後、ミケランジェロ教皇との不和によりフィレンツェに1度戻ってきているので、当然このとき、見事な軍旗争奪シーンと無残に絵具が流れた『アンギアーリの戦い』を見たはずである。それを見てミケランジェロは何を思ったか。少なくとも「自分が勝った」などとは思わなかったはずである。もし「レオナルドの奴、失敗しやがった」とほくそ笑んだのだとしたら、それはのち自分に跳ね返ってくることになったと言ってよいだろう。ミケランジェロもまたレオナルドと同じく、大理石に亀裂が入ったなどの理由から、多くの未完成作を残すことになったのであるから。
 

フェルメール『絵画芸術』を模写してみました

 あのダリが、世界が終るとしてただ一つ救える絵画があるとしたらどれを選ぶかとの問いに即答してあげ、描いた画家自身も終生手元に置いていたフェルメールの『アトリエ(絵画芸術)』を模写しました。


フェルメール『アトリエ(絵画芸術)』模写 72.7×60.6㎝
 
ただし原画より、縦横比で60%、つまり面積にすれば36%小さくしています。すなわち原画は50号くらいですが、私の模写はF20号。これは、私のアトリエ自体が大きくないからとか、F20が縦横比が一番合ってるからとかいうのもありましたが、要は金がなくて50号キャンバスが買えないというのが一番の理由だったかもしれません。しかし、この小ぶりサイズで描いてよかったと思っています。なぜなら、この絵、めちゃくちゃ時間かかるからです。
 
この絵、フェルメールにしては大画面ですし、また隅々まで密度高いですからね。正直原寸に近い50号で模写してたらと思うとぞっとします。これが今までこの絵を模写しない理由でもありました。私の経験では、同じ絵なら描くのにかかる時間は単純に面積に比例します。50号だと今回の2.5倍の時間がかかったはず。もういっときの人生すべてこれにかかりっきりになる。ちょっと正直怖いわ。
 
これはフェルメールも同じだったんじゃないでしょうか。ダリは上のように言ってますけど、正直この絵はフェルメールの売りである神々しい抒情性には乏しく、寓意的な面も盛り込まれていてどちらかというとフェルメールとしては大きさともども特殊、理知的な作品です。ただ、これと同程度の作品をもう1作描けって言ったらフェルメールでさえ描けたかどうか。時間的にも体力的にも、そして発想的にも。フェルメールが生涯、この絵を手放さなかった理由も案外ここにあるんじゃないでしょうか。手間がかかったということも手放し難さの大きな要素になりますからね。この絵は『絵画』というものを賞賛するのがテーマの作品ですから、フェルメール自身にしろ、ダリにしろ、画家として特別肩入れしちゃってたというのもあるかと思いますが。
 
ところで、私の模写は大きさ以外に、原画と大きく変えている点がひとつあります。それは言わずもがな、モデルの女性の桂冠(本当にこれが桂の葉か知りませんが)を緑にしていることです。原画は青になってます。もちろん葉は緑に決まってますから、原画は褪色したのでしょう。それは『デルフトの眺望』や『小路』で描かれている木々でも同じです。しかし、私はこの絵においてこの桂冠が緑色であることは非常に重要なことだと思いました。なぜなら桂冠は勝利のシンボルであり、画中の画家はそれを真っ先にキャンバスに描いているところ、ということは、この桂冠がこの絵の中心ポイントということだからです。
 
この絵がフェルメールの制作順序を正確に現わしているかは疑問です。普通、人物画を描くときは顔から描くに決まってますからね。なのに桂冠から描いている。それ、この桂冠がポイントだからであり、ゆえに、この絵においてこの桂冠だけに緑色を使ったんじゃないか、私はそう考えたのです。だからあえてフェルメールの時代にはなかった堅牢な緑色、ヴィリジアンを使って桂冠を強調しました。ほかのカーテンの青色の部分ももとは緑色の部分があったかもしれませんが。
 
ともあれ、個人的にはこれで締まったと自画自賛ならぬ他画自賛しています。                

画集『福本晋一 遠い街』発売中です

 画集作ってみました。

(この画集はヤフオクで出品しています→こちら
 
苦労したのは、作品選び。いちおう、作品集としてまとまりが必要かなということで『遠い街』というテーマというか、コピーつくってそれを基に掲載する作品を選んでみたのですが、このテーマから外れている作品でも「いいんじゃないか」と思えるものもあったりして、結構悩みました。結局最後は「えいや!」で選んじゃいましたけど。あと、私の場合、横長の絵が多いので本のサイズも悩みました。でも横長の本ってなんか本棚に入れると邪魔っぽいというので結局、正方形にしました。あと、本棚に立てたとき背表紙の文字が読めるようになっててほしいので、結構分厚い紙を使ってます。編集作業自体は結構楽でした。
 
 
しかし今回自作の作品リストつくって確認してみたのですが約90作中、12作品もつぶしてるんでちょっとつぶしすぎの気がしました。というのも、「これは今の僕が表現したいことじゃない! なんかウソがある!」と思うからつぶすんですけど、あとで写真見たら結構、よく思えるものが結構ある。事実、今回の画集にもつぶしてしまった絵を何作か入れてます。もう今後は描き上げた絵はつぶさないようにしようと思いました。ちなみにブログのほうは9割近くの記事をつぶしてます。どうも何かにつけ、身軽になりたい症候群があるもので……。
 
あと未発表作品の他、自画像も小さいながら最後に入れました。最近読んだある本によると、画家というのは、あまり自画像描かない人でも、絵でやっていこうと決意した時には自画像を描く人が多いって書いてあり、ああ、自分もそれだなと思いました。8年前、ちょうど絵でやっていこうと思った時に描いたものです。今あらためて見ると、決意と同時に、これでやっていけるのかって不安と心細さも出てて、われながら真実描けてるんなじゃいなかと思いました。                      

レンブラント『ユダヤの花嫁』を模写してみました

レンブラントの最高傑作という声もある『ユダヤの花嫁』と『読書するティトゥス』を模写しました。

欧米で古典絵画の美術館を巡っていて、同じような絵ばかりにあくびが出始めたとき、突然ハッとさせられる絵に出会う、と、それはたいていレンブラントの絵であると、これは私の経験ですが、同じことを書いている人がどこかにおられました。レンブラントの絵の存在感はすごい。
 
レンブラントは原画と複製の違いが大きい画家です。もちろん原画のほうがずっといい。レンブラントに比べたら同国の後輩フェルメールは、原画と複製の差があまりない。
 
レンブラントの良さが複製で減殺されてしまうのは、ハイライトの絵具の盛り上げとグラッシ(油で薄めた絵具で透明状に描く方法)との対比・相乗効果が写真では出にくいからだと思います。これまた同じオランダのファン・ゴッホの絵も絵具が盛り上がってますが、ゴッホは「盛り上げ」一辺倒なので、複製でもそれが分かりやすい。
 
ユダヤの花嫁』 模写 P20号
 
上の『ユダヤの花嫁』は男性の右袖が素晴らしく絵具で盛り上げられていることで有名で、レンブラントの絵具盛り上げの例としてもっとも引用される絵でもありますが、私が、どう描こうかともっとも悩んだのは、むしろ男の服の盛り上がっていない部分でした。具体的に言えば胴体の部分。なかなか判別できないので、もう模写すること自体やめとこうかなって思ったほどです。しかし高画質画像を見ていたら、袖ほどではないですが、白の絵具でまんべんなく盛り上げておいてその上から茶色のグラッシをかけ、それから筆の柄でひっかくということを何度か繰り返してるなと分析し、それでやってみました。このスクラッチ(ひっかき)という技法は、私もオリジナル絵画でよく使いますが(絵具乗せていくより、ひっかくほうが楽ですから)レンブラントもよく使いますねえ。この絵においては、あと男性の髪の毛と、女性の胸の透明な衣服部分で使われてるようです。
 
 
レンブラントは、昔は日本でも今よりは人気が高かったようで、レンブラントを目標とした日本人洋画家は非常に多い印象を受けます。それが現在日本での人気において、フェルメールとファン・ゴッホという同国の後輩に抜かれちゃったのは、上記の「複製では良さが出にくいこと」に起因している気がします。
 
原画をたくさん持っている欧米ではレンブラントの人気、評価はすごい。「レンブラントは生涯600点の油絵を描いた。そのうちの1,000点が現在アメリカにある」なんてジョークがまかり通ってるほど贋作も多いのだとか。もっとも現在、レンブラントの直筆油絵の数は、弟子との共作は除外することによって250点くらいに修正されているようですが。
 
一方でレンブラントは聖書を題材としたものが多いから、フェルメールより日本で受けないのだという意見もあるようです。しかし、私は、レンブラントの真骨頂、本質は、肖像画、わけても集団肖像画にあったと考えます。実際、当時のオランダは美術史上はじめて、歴史画家、風俗画家、風景画家、静物画家など画家の専門化が確立した時代であり、その中でレンブラントがその名声、及び富を得たのも何より肖像画家としてでした。
 
読書するティトゥス(模写)F10号
 
レンブラントの真骨頂が個人肖像画、とりわけ集団肖像画にあったというのは、『テュルプ博士の解剖講義』『夜警(※これは集団肖像画なのです)』『織物組合の幹部たち』『ユダヤの花嫁』『ある家族の肖像』などを見れば、何も説明要らないでしょう。彼の個人肖像画も十分劇的ですが、複数人の肖像を描かせたときの彼の霊感というか構成力、演出力は飛びぬけています。下図の『織物組合の幹部たち』の卓上面より下から見上げるという構図とその静かなる動性!
 
『織物組合の幹部たち』(原画)
 
反面、彼の聖書画のほうは劇的とはいえるにせよ、どこか物足りなさを私は感じます。なんか抽象的なドラマチックさがあるだけで、人物は記号的、生きている人間の実在感、重量感がない。
 
レンブラントは、目の前に実体がなければ描けなかったタイプの画家だったのではないでしょうか。想像だけに頼ってては持ち味が発揮できないタイプの画家であった。ここら、上にあげたフェルメール、ファン・ゴッホにも通じるものがある気がします。一見幻想画家と呼びたくなりそうなエッシャーなんかも、ひとつひとつのオブジェ自体は想像じゃ描けなかったらしい。
 
レンブラントの真骨頂は肖像画、生きた人間の肖像、わけても集団肖像画にあった――レンブラントがあれほどの数の自画像を描いたのも、彼の本質が肖像画にあったからだと思います。それはレンブラントにとって、モデルと真正面から向き合い、その本質を見抜こうとする鍛錬の場、自己の真骨頂を発揮できた場であったのだという気がします。

個性・スタイルはどうすればできるか

 最近つくづく思うのは、当たり前のことかもしれませんが、「今の自分以上の作品は描けない」ということです。エンターテインメントの作品なら別かもしれませんが。

「今の自分」というのは、今の自分の「状況、環境、感情、こだわり、才能、体力などなど」すべてを含んだものです。
 
私は、絵を実際に描くまでは、いかにも芸術作品みたいな、もっとドロドロした人間の根源的情念みたいなすさまじいものを描きたいというか、描くべきだというか、描くだろうというか、そういうイメージを漠然と持っていたんですが、実際、描いてるものはそれと全然違うものになっています。まあ、良くも悪くも、これが私、今の私ということなんでしょう。今の自分以上のものも描けないし、今の自分「以外」のものも描けない。
 
つまり、個性やスタイルというのは、人格においてのそれと同じく、作品作りにおいても自然と出てくるものなのだと思います。無理に作っても偽物だ。まあ自分にとって本物であっても、それがどれだけ他者、つまり社会的、あるいは美術史、美術界的に強力な存在であるかとなるとまた別の話ですが。
 
 
 38×45.5㎝ 油彩
 
だから、作品づくりにおいて、自分の個性、スタイルの出し方というものがあるとしたら、結局、自然に生きることなのだと思います。早い話が、自分のやりたいことをやりたいようにやって生きる。これだけ。いや、作品づくりに限らず、個性というそのものが結局、自分のやりたいこと、生きたい生き方してることの反映なのだと思います。だから個性的になりたかったら、自分のやりたいことを遠慮なくやることです。本音で生きると言い換えてもよい。やりたいことを我慢してしまう性格は、性格であっても、個性ではないと思います。もし自分は個性がないと悩んでいる人がいるなら、結局のところそれは、やりたいことをできてないという悩みなのではないでしょうか。やりたいことやれていたら、自分が個性的かどうかなんてどうでもいいことのはずです。
 
もっとも「やりたいことをやる」――これが一番むずかしいのかもしれません。やりたいことをやらせない周囲の圧力ってのは強いですからね。特に日本は。
 
かえりみてみれば、私も、生きたいように生きるってことをしてから、描けるようになった気がします。具体的に言うと、会社をやめてひとりでやっていくという生き方をしたときからです。会社にいるときは全然描けなかったし、描こうとする気さえなかった。
 
もっとも先も言いましたように、そうやって描けた作品が他の方々にどれだけ働きかけれるものになってるかとなると、それはおのずと別問題で、正直心もとなく、きっと大したことはないのでしょう。しかし問題はそこにあるのではなく、自分の納得のいくものができているか、いや、それよりもそれに挑戦しているかどうかにあると思います。作品の社会への働きかけや、ましてやそれによる名声、収入なんて、「結果」という別次元の話で、自分ではどうすることもできないのですから、そっちのことは考えても、どうこうしようとしてエネルギー使ってもしょうがありません。外的賞賛の「結果」を手に入れることを夢見るのは本人の自由ですが。
 
とにかく自分が納得いくものを描く。これはさっきの話に還元すれば、自分がどれだけ納得のいく生き方ができているか、やりたい生き方をできているかという話でもあるかと思います。小手先や頭で、個性やスタイルを打ち出そうとしても、自分で心底納得いくかも疑問ですし、徒労に終わるということだけは確信をもって言えます。
 

ホテル・カリフォルニアを日本語訳で歌ってみよう!

 ポーの「鴉」の訳に続いて、イーグルスの名曲『ホテル・カリフォルニア』の歌詞を日本語訳してみました。しかもちゃんと歌えるように! しかしこの歌はポーの「鴉」に似てますね。特にオチ。

 
Hotel California
                   by イーグルス
                   
昏い荒野のハイウェイ
髪は冷えて
立ちこめるコリタス
匂いは暖かで
遠くにまたたく
あかりが見えた
目と頭くもる
泊まらなきゃな
 
戸口への道に
女がいた
鐘の音鳴りわたる
天国地獄どっちか
ろうそく灯して
みちびかれてく
その廊下で誰かが
こういったさ
 
ようこそ ここはホテル・カリフォルニア
素敵な場所 素敵な顔
一年中 いつの日でも
 
妖しい魅力を持った
女は多くの
美少年たちかこってる
友だちよと
中庭じゃ踊り
狂ってる
忘れないため
忘れたいため
 
そこでチーフを呼んで
ワインたのむと
69年を最後に
なくしましたと
そしてまだあの声が遠くから
真夜中に起こすよう
こういうのさ
 
ようこそ ここはホテル・カリフォルニア
素敵な場所 素敵な顔
このおどろき ぜひあなたに
 
天井にゃ鏡
氷にはシャンペン
みな自分からはまるのと
女は言う
宴の広間に
みなつどって
刃物突きたてるが
獲物は生きてたッ!
 
最後に覚えて
いることは
出口求めてドアへ
走っていた
「おちつきなさい」と
暗闇にボーイがいう
「チェックアウトはお好きに
でも出れはしないですよ」
 
                                             2020年1月11日
 

絵画にタイトルなどいらん

 新作を描くたびに、私はタイトルに悩みます。私はどうも自分で思うに

絵画にタイトルなんかいらん
 
と考えているところがあるようです。谷内六郎さんの絵のようにタイトルと絵でひとつの作品なんて例外はありますけど。
 
音楽なんかもいわゆる純粋芸術の音楽なんて、タイトルないですよ。『交響曲第4番変ロ長調』これだけ。『英雄』だの『運命』だのはあとから誰かがつけたものがほとんどで、実際ニックネームという扱いです。そのニックネームも分類やら、話題に上げやすいようにと『便宜上』のためにつけられただけでしょう。絵画だって昔の古典絵画はタイトルなんて作者がつけてないです。『モナリザ』『天地創造』これらもまた、あとから誰かが便宜上つけたものです。文字が表現媒体である小説だって本にして出版するからつけられているところあるんじゃないですか。確かカフカの生前未出版小説も、カフカが『城の物語』とか呼んでただけでタイトルはつけてないものがほとんどらしい。
 
未成線 (海峡 または遠い海) 53×45.5㎝ 油彩
 
とにかく、芸術ぶったわざとらしいタイトルはつけたくないので、たいてい単語一発のタイトルにするんですが、あまりに「終着駅」とか「曳航」とか「堤防」とか同じタイトルを頻出させていますので、現在は頭に番号をつけて作品リストは管理しています。正直それも面倒くさいんですが。
 
上記の絵など最初は「未成線「海峡」「遠い海」と三つもタイトル変えてます。それも前つけた名前を忘れて、新たにつけたりして、もう自分でもどれでもいいや状態です。