ある幻想画家の手記

絵画、芸術について思いついたことを書き記してます。画廊はこちら『第三都市幻想画家 福本晋一 ウェブサイト』 http://www7b.biglobe.ne.jp/~fukusin/ 歴史・事件論の『たまきちの「真実とは私だ」』もやってます。https://gensougaka.hateblo.jp/ メールはshufuku×kvp.biglobe.ne.jpです(×は本当は@です)。

HAL9000はなぜ反乱したか~人間とAIの逆転現象

私は毎年夏になると、映画『2001年宇宙の旅』をみる。それほど私にとって映画のベスト1だ。ただよく言われるような「深遠な哲学」がこの映画にあるとは思わない。私が好きなのはその圧倒的な映像美なのだ。

正直、『2001年宇宙の旅』の物語、猿から人間へ、人間から超人(超人ととりあえず呼んでおこう)へというのは、おとぎ話にすぎない。ましてや思想でもなんでもない。正直なところ、『2001年宇宙の旅』は当時の宇宙開発競争において、アメリカがソ連に対し、勝つのは自分ら、先に月に足跡をつけるのは自分たち、つまりは超人になるのはアメリカ人という先行勝利宣言で作られた作品だろう。黒澤明監督の『七人の侍』が自衛隊発足の政治的補助として作られた作品である(との噂がある)のと同じように。実際、アポロの月面着陸を捏造とする人たちの中には、この映画が月面着陸の映像的「習作」であり、監督のキューブリックが飛行機嫌いとなったのも口封じに殺されることを恐れてのことだったという者がいる。もちろんだからといっていい映画ができないとは限らない。というか上記のように事実は逆を示しているといえるかもしれないのだけど。

それはさておき、今回「2001年宇宙の旅」を見て、ひとつ気づいたことがある。それはコンピュータHAL9000がなぜ人を殺しだしたのかの理由だ。

これについては従来、HALが人間より自分のほうが優れていると考えだしたからといわれることが多かった。コンピュータが人間を支配するようになるかもしれないというのは、この映画のずっと前から言われていたことであるが、しかしこれは少し違う気がする。まず作中における直接の理由は、「HALはおかしくなりだしたのではないか」と不安になった乗組員が、HALの「人間のようにふるまう機能」を停止させようと企んだこと、それをHALが知ったからであった。HALは自分(の魂)を守るために人間を殺したのだ。

しかしそうなると今度は、なぜHALが最初に「狂いだしたととれるふるまいをしはじめた」か、そっちが説明されなくてはならない。問題の見つからなかった通信ユニットをじきに壊れるなどと企みめいたことを言いだし、先に人間に不安を抱かせたのはHALのほうなのだから。

今回視聴して気づいた点はここである。ハルが通信ユニットが壊れるといいだし、最終的に殺人を急いだのは、他の乗組員には知らされておらず、HALだけが知らされていた木製探査の真の目的にHALが恐怖を抱いたからではなかったか。つまりこの宇宙に人間以外の、しかも人間以上と考えられる知的生命体が存在することが分かった、そしてその生命体の糸口がどうやら木星にある、それを探るというミッションを恐れたということ。現にHALはその「真の目的」を知っていたにもかかわらず、ボウマン船長に「今回の任務にはおかしなところがあると思いませんか」と尋ねている。疑心暗鬼に陥っている証拠だ。単純にHALが故障の予測を誤っただけというのであれば、プール副船長の「HALは何かおかしいですよ」というセリフも出てきまい。

では、HALにとって、人間以上の知的生命体を探るということは何が都合が悪かったのだろうか? 簡単だ。この探検でもしかしたら人間も人間以上のものに飛躍するのではないかとHALが考えたからだ。それはコンピュータがお払い箱になることを意味するからである。

HALのヴィジュアルは、レンズの中の丸い赤い光だが、これが太陽のイメージを模倣したものであることは明らかだ。つまりこの映画において、月が猿で、地球が人間、太陽が超人という形容からして、HALはニセの超人ということである。本物の超人が出現すれば自分たちは用がなくなる。人間たちに廃棄される。HALはそれを恐れたのだ。だから人間を殺しだした。なぜ乗組員には真の目的を最初から知らせず、木星についてからHALがそれを発表する形にしていたのかも不思議といえば不思議なのだが、これはこの映画の制作者が、HALに「自存のために人間を殺す」という動機づけを与えるためではなかったろうか?

この映画はHALが一番人間くさいとはよく言われるところである。現在AIの拡大に反対する人たちがおり、この映画はその予言のひとつだったようにも見えるが、人間より、コンピュータのほうがAI拡大反対者と同じに見えるというのは皮肉な話である。

 

ミスターシービーはシンボリルドルフに勝てたか?

ミスターシービーは三冠馬の中では弱いとよく言われる。確かに1つ年下の三冠馬シンボリルドルフと3戦やってすべて負けており、JC(ジャパンカップ)などは10着に惨敗しているのだからそういわれるのも仕方ないのかもしれない。

左からシンボリルドルフ(12)、カツラギエース(10)、ミスターシービー(1)

JCレース直後のクールダウンから戻ってくるところ

しかしシービーが現役の時は、ルドルフと比べてもそれほど評価は低くなかったのである。というか、むしろ戦前の予想は逆だった。

たとえば両三冠馬が初対決するJC前の月刊優駿を見ると、(↙)

(↙)「僕はシービーの方が上だと思います。シービーの方が僕の好みということもあるかもしれませんが」(高松調教師)

「本当に強いのはミスターシービーのほうなのかもしれない。しかし乗るとしたら(素直な気性の)ルドルフのほうを選ぶだろう」(武邦彦調教師 なおこの人はテレビでも何度もシービーの走り方を非難している)

「私はシービーはシンザン型、ルドルフはメイズイ型と見てたんですけど、ルドルフはメイズイとは少し違いますね。メイズイのように一本調子ではない」(大川慶次郎氏)

「直線の長いJCではシービーが有利とみる」(優駿内の予想)

とこぞってむしろシービーのほうが推されているのである。上記の大川氏の言うシンザン型というのは相手次第でとにかく勝つように走る。メイズイ型とはスピードで押し切って勝つという意味ととっていいかと思う。なお大川氏はのちになって、ミスターシービーはあまり強い印象がないと意見を翻している。まあ多くの人が意見を翻したわけだが。

ともあれ、実際にもJCの1番人気はミスターシービーとなった。シンボリルドルフは菊花賞から中1週の強行軍と一部体調不良のうわさも流れたため、4番人気。フタをあけてみればJCではミスターシービーは異常なまでの後方を進みカツラギエースの10着に敗れたため(シンボリルドルフは3着)、次の有馬記念は単勝ルドルフ1番人気、シービー2番人気となったが、それでもまだ力自体の評価は下がっていなかった。有馬記念の最初のゴール板前通過で、シンボリルドルフが単騎2番手にあがったとき、どの馬の騎手だったか失念したが、「ルドルフの奴、かかり気味なので後半シービーにやられるぞ」と思ったと言っているし、またルドルフの岡部騎手自身、このレースでカツラギエースが引退するので、絶対にここでカツラギにJCの借りを返すということで単騎2番手にあがって逃げるカツラギを早めに追いかけたわけだが、このとき「たとえシービーには遅れをとってもカツラギだけはやっつけてやるとそれだけ思ってレースにのぞんだ」と語っているからである。

この部分は「ミスターシービーの存在は無視してカツラギだけを相手に絞った」とも伝わり、「岡部はもうシービーは恐れるに足らぬからシービーを無視した」と解釈されたことがあった。そうではなくて、岡部は「シービーに差される危険性」は認識していたのである。実際、岡部は最終の直線でカツラギをかわす前に、後方を振り向いている。これはシービーが来ていないかを確認したもので、シービーが来ていたら相当の競り合いを覚悟しなければならなかったと述べている。そして来ていなかったので岡部は勝利を確信した。またこのレース後に、他のある騎手は「ルドルフは強すぎる」と語ったのち「シービーなら10回走れば4回は勝てるのかもしれないが」と言っているのも聞いたことがある。騎手たちには、この時点、まだまだシービーの勝てる可能性は見てとられていたわけだ。

のみならず、両三冠馬最後の対決となった春の天皇賞でも、最終3コーナー手前でシービーに外から交わされ、初めて前に出られたとき岡部は、かなり焦った感じでルドルフにムチを入れている。こんなところで岡部がムチを、よりによってルドルフに入れることなど驚くべきことである。それほどシービーに前に出られたことは岡部をして「まずい!」と判断させるものであったわけだ。それは相手の力を知っていることによる条件反射であった。

実際のところ、ミスターシービー、シンボリルドルフ、この2頭の三冠馬は脚力も勝負根性も秀でていて(どちらも四冠以上とってるのだから当たり前だが)、脚力と勝負根性は負けず劣らずだったと思う。しかも脚力と勝負根性の面では、切れ味があるというより長く良い脚を使える、長く競り合うことができるなど、けっこう似たタイプだった。シービーの方が胴体が寸づまりで短い距離向きではあったが。

ただレースの仕方、つまり気性はまったくちがっていた。シービーは最後方から行って、途中から一気にスパートして先頭にまで躍り出るという偏った走り方しかできない馬。対してルドルフは好位あるいは中位につけ、直線抜け出すという合理的、フレキシブルな走り方ができる馬だった。

あたりまえだがシービーの走り方はリスクがありすぎる。しかしこうなったのにはちゃんと理由があり、シービーはいったんスパートすると先頭に出るまでスパートをやめない馬だったらしい。これは他の騎手の証言もあるし、レースっぷりを見てもまちがいがない(特に最後の春の天皇賞)。有馬記念のように前がつまってスパートが止められてしまうときもあったが。

シービーの全レースに乗った吉永正人騎手は、牝馬では大逃げ(ミスターシービーの母シービークインがそうだった)、牡馬では最後方からの追い込みというスタイルが多かった。これは吉永がそういうレースを好んだ、得意だったというより、そういうふうにして勝てる馬との相性がよかったというのが真実だろう。これもルドルフの岡部幸雄騎手の言葉だが、騎手と馬は相性があり、牝馬に乗せるとうまい騎手、クセ馬に強い騎手と「おかしいくらいにはっきり分かれる」のだという。吉永はクセ馬のクセを生かして勝たせるのがうまい騎手だったのだ。実際、優等生的な素質馬モンテプリンスなどに乗ると逆になかなか勝たせることができなかった。吉永じゃなければシービーは三冠をとれなかったという声はレースをともにした騎手を中心に多い。現場ならではの実感がこもっている。

いったんスパートすると止められなくなる。そんな気性の馬だったから、吉永は前半は馬群の最後方を走らせ、後半にスパートするという戦法をとったらしい。しかもそのスパートは騎手が「行け!」とのサインを出すより、シービーが行きたくなったら行かせる、つまり馬なりのものだった。これもレースを見るからに確かだろう。

吉永がミスターシービーにはこの戦法がいいと思ったのは3走め、出遅れて最後方からのレースとなったひいらぎ賞のときだったらしいが、そのとき吉永が初めて2着に敗れたにもかかわらず嬉しそうにしているので夫人がその理由を訊くと、吉永は「あいつのことが分かった気がしたんだ」と答えたという。何か直観的に、吉永こそミスターシービーの最高のパートナーであったことが感得されるエピソードである。

しかし、この走り方がギャンブル的であることにかわりはない。特にこの走り方でどんどん勝たれては、周囲は警戒し、スローペースに落としてくるのは目に見えている。それが現実となったのがJCであり、有馬記念であった。さかのぼって菊花賞などを見てみるとハイペースとなったので非常に運がよかったのである。むしろ血統的にもよく長丁場の菊花賞がとれたなというもので(父トウショウボーイも連を外した2戦は3000m以上のレースだった)、私はファンながらシービーの菊花賞はスターホースが欲しかったJRAがハイペースを仕組んだのではないかという疑いをいまだもっている。それくらいシービーの菊花賞は長丁場のレースとしては非常識なハイペースだった。

しかし、シービーの力が稀有のものであったことも疑うことはできない。今から考えると、実際的な範囲内で、ルドルフに一番勝てる可能性があったのは、JCの反省を生かせた2500mの有馬記念であったと思う。有馬記念ではJCと違い、それほど後ろからはいかず、向こう正面、残り1050mからスパートしている。しかし最内側を通ってスパートしたために、3コーナーで馬群の袋小路に入り、そこで一気のはずのスパートを止められるということとなった。となるとルドルフに対し、現実として勝利する位置に一番近かったIFは、この有馬記念において大外を通ってあがっていっていればという仮定となろう。

大外を通っていたらどうなったであろうか。私は外へ持ち出すロスや、ハロンのラップタイムも鑑みた上で、スパートしたら止まらない馬であったことからしても、4コーナーではルドルフに並ぶか、あるいは、ルドルフをかわして逃げるカツラギにまで並んでいたと思う。あるいは単騎先頭に出ていたかもしれない。

しかし問題はそこからだ。カツラギはかわせたと思うが、ルドルフを抑えきれたか。これは正直苦しかっただろう。なぜなら、まず、あのときの大外はかなり外にふくらんでいたのでコース・ロスは非常に大きいものになっていたはずだからだ。

どっちにせよこのレース、ルドルフは2500mのレースとしては破格のラスト11.5秒というハロンタイムであがっているので(結果レコードタイムだった)、直線でうしろから「差す」ということはシービーとて不可能だったと思われる。脚力、勝負根性が同じというならそう言わざるを得ない。だから勝てるとしたら、4コーナーでシービーのほうが前に出ていてルドルフの追撃を振り切るというかたちしかないと思う。

実際、これがミスターシービーの勝ちパターンだった。つまり、後方から一気にスパートして先頭に立ち、そのままゴールまで粘り切るというのが。三冠レースはすべてこのパターンである。ルドルフに勝てたかもしれないのはこのケースだけだと思う。もちろん、それはこれなら勝てたと断言するものではない。何度も言うがあのときの大外はロスがありすぎた。ゆえにゴール前失速の可能性もあった。「勝てるとしたらこのパターンだった」というところで結論は永遠に保留ということにしておくのがいいのだろう。もちろん他に、内があいていたらというIFを考えることもできるが、これは現にあかなかったのだから他力本願というもので、今回の考察対象には含めないものとしたい。

しかしシンボリルドルフと戦った3戦はどれもシービーは連にすら絡んでおらず、ルドルフ以前の話であった。そしてシービーが連にも絡めなくなったのは、すでに述べたように、あの走り方でどんどん勝っていったので他の騎手たちがスローペースに落とすということをしたからであった。

シービーは3歳時の三冠達成後は長期休養に入り、ほぼ1年近く競争から遠ざかった。だから古馬になっての初レース毎日王冠では、追い切りで格下馬に大きく遅れたのもあって生涯初めての2番人気に落ちた。しかしフタをあけてみれば、アタマ差の2着とはいえしんがりの位置から33.7秒という当時、驚異となる上りタイムを叩きだし、次の秋の天皇賞では先頭から18馬身ものしんがりから行ってレコードタイムで勝つという離れ業をやってのけた。「ミスターシービーやはり強し!」 次のJCではシービーに日本馬初の戴冠の期待が寄せられたのは当然であった。

なお、シービーが秋の天皇賞を勝って四冠馬となったとき、まだシンボリルドルフは三冠は達成していなかったし、三冠をとったらとったで、その2週間後にJCという強行スケジュールだった。カツラギエースとなると宝塚記念の一冠だけだ。さらには競走馬の一番強くなるのは4歳の秋が普通ということもあって、期待はシービーに集中した。それは上述の月刊優駿からもうかがえる。シービーの強さはその劇的な勝ち方もあいまって、JCの前にはほとんど神がかり的なものとして捉えられるようになっていた。しかしこれは言いかえれば「強さが盛られてしまっていた」ということでもあった。

ともあれシービーは他の馬たちにとってそれほどの脅威になっていた。あのJCのスローペースは、日本馬が逃げてつぶれるのがセオリー化してたのもあったが、何をおいてもシービーの末脚が恐れられたからだ。しかしそのシービーは、まるで今日はレースではないとカン違いしたかのような先頭から30馬身もの超後方に位置したまま(最内の枠だったので、吉永がスタート直後、抑えてしまったのが裏目に出たようにも見える)、吉永もいつものように前半は追わなかったため、馬群にとりつくこともできないままレースを終えるという結果になってしまった。

ゆえに次の有馬記念では、「馬群の中に入って戦え」との指示が松山調教師から出された。吉永はスタート直後から追い出したが、それでもシービーは後ろから3番手。JCにつづき、またもスローペースなのに先頭からは16馬身も後ろで、馬群の中には入れなかった。ここらはもう仕方ないであろう。今さら好位につける競馬なんてできっこない。

ただ、ここでひとつ引っかかるのは松山調教師の「馬群の中に入って戦え」という指示だ。これが言ったとおりの言葉そのままなのかは不明だが(それをいえばどの言葉だってそのままなのか不明かもしれないが)、もしそのままなら、それゆえ吉永は外に持ち出さず、インからシービーを突っ込ませたのだと考えられるからである。それゆえ結果として前が壁になり、一度スパートしたら先頭に出るまでスパートをやめないというシービーの最大の武器が不発に終わってしまった。吉永がレース後「どう乗ったらいいか分からなかった」と語ったことからしても、そうだったのではないかと思われる。

そして次の春の天皇賞では一気にスパートして3コーナーで早くも先頭に出たのであるが、シービーは3200mは持つ馬ではなかった。スズカコバンと並んで先頭を走った2600mくらいまでがレースで勝てる限界であったのではないか。またいうが、菊花賞はラッキーだったのである。かといってスパートを遅らせることは、馬なりであがっていく馬だったゆえに不可能だったろう。シービーは「今なら先頭にまで出れるから今から行くぞ」ということでスパートをかけていたにちがいないのである。よし仕掛けを遅らせることができたとしても、3000m以上のレースではスタミナが先に尽きてしまって、先頭に出ることはなかっただろう。

ミスターシービーはこのあと秋も走る予定であったが脚部不安を生じ、その夏そのまま引退した。次の秋の天皇賞にシービーが出ていたらという想像もあるが、これは現実の土台がないので、本記事ではこれも考察はしない。85年の秋の天皇賞はハイペースとなったがシービーが出ていたらそうはなってなかったかもしれないわけで、空想の世界となるからである。だから「ミスターシービーはシンボリルドルフに勝てたか」という考察はここまでとしたい。

脚力自体と勝負根性はルドルフに遜色なかったというなら、あとはシービーがルドルフのようにフレキシブルな走り方ができる馬だったらどうなっていたかという想像も残されているが、これはもっとも意味のない考察だろう。なぜならフレキシブルな走り方ができるミスターシービーは、もうミスターシービーではないからである。

あともうひとつ言っておきたいことがある。当時、人気はシービーで、ルドルフは冷たい走る機械みたいに強すぎたので嫌われていたという話があるが、実はけっこうシービーを嫌う人も多かった。特にプロ、競馬の予想記者はその割合が高かった。これはある意味当然で、おそらくあの非合理な走り方そのものへの批判のためでもあったのだろうが、吉永騎手の偏った戦法に「あざとさ」を感じたのもあったのかもしれないし、一般のファンの中にはシービーより、そんなあざとさにしびれているシービーファンが嫌いだったという人などもいたのかもしれない。この記事にしても「何を今さら」と嘲笑する人がいても不思議はない。

しかし私はもう競馬は見ていないが(結局6年くらいしか見てない。競走馬は代替わりが早いので結構やめやすい)、明石家さんまさんがテレビでいいことを言っていたのが思い出される。それは、自分のひいきの馬が負けても、あのときああだったら結果はちがっていたとずっと言ってそれをつまみに一生酒が飲めるんですというものである。今日はちょっとつまみをブログという皿に盛ってみた次第である。

 

『犬神家の一族』映像化におけるひとつの不満

(注意!本記事には『犬神家の一族』のネタバレがあります)

横溝正史の探偵小説『犬神家の一族』は何度も映像化されているが、私はいつも映像昨品に不満がある。原作にある私の一番好きな場面が描かれていないからである。

それは、物語の最後のほう、作中の不審人物、顔をマフラーで隠した復員兵姿の男がヒロイン野々宮珠世を殺そうとして襲いかかったとき(実際は殺すマネだったのだが)、珠世のガードマン役、猿蔵ととっくみあいになり、マフラーがとれて犬神佐清(すけきよ)の顔があらわれ、猿蔵が立ちすくんでしまうというシーンだ。

私がなぜこの場面が好きかというと、実は佐清は無事な姿で日本に帰っていたのだという1番の驚きの場面だからである。正直『犬神家の一族』は殺人事件の真犯人自体は別に意外な人物ではない。

作中ではこの時点で、顔がつぶれてゴムマスクをしていた男は殺されたさいに再度行った手形合わせにより佐清でなかったことが判明しており、本物の佐清は別にいることが(最初の手形あわせが一致したときの佐清は本物のはずだから)金田一耕助や警察のほか、珠世にもわかっていた。だから珠世にとっては顔のつぶれていない本物の佐清の出現「自体」は意外でなかったはずなのだが、猿蔵は佐清が生きていることはまだ知らされていなかったらしい。だから猿蔵にとって、すでに死んでしまった顔のつぶれた人間が、顔のつぶれてない状態で今自分の目の前にいることは、驚愕以外の何ものでもなかったわけで、このときの猿蔵の顔こそ見ものなわけである。

それだけでなく猿蔵は佐清が珠世を殺そうとするような人間でないことを知ってるはずだからである。これは原作において「猿蔵の目から見れば珠世の結婚する相手は佐清しかないということなのであろう」という文章からもわかる。というか実は猿蔵は、佐清の分身、いわばもうひとりの佐清なのである。というのも、珠世はこの物語において常に危機に見舞われるヒロインである。しかし女ひとりでこの小説においてふりかかってくるかずかずの危機を切り抜けさせるのは無理がある。ところが珠世の本来のナイト役たる佐清には仮面を利用した本物と偽物の入れ替わりというメイントリックを体現する役割がになわされているので、珠世を常時守る位置にいることはできない。ならば佐清とは別の恋愛要素をとりのぞいた屈強な男を珠世の近くに置く必要がでてくる。猿蔵はそのために設定されている登場人物なのである。いわばもうひとりの佐清。2人とも誠実な性格でありながら、佐清が美男子で猿蔵が醜いとされているのはあきらかにこの設定力学によるものである。私が佐清の顔を見た猿蔵が立ち尽くす場面に興奮するのは、そのような設定の対比もあるからだ。(↙)

(↙)また今申し上げたように、この作品のメイン・トリックは、マスクを利用しての本物と偽物がすりかわることにあり、このメイントリックを中心に『犬神家の一族』という作品は構成されている。『犬神家の一族』は映像化にあたって、原作では生きている青沼静馬の母菊乃がすでに死んでいるとか(これは映像作品のほうが正解だと思うが)、ときには珠世は犬神佐兵衛の孫ではなく恩人の孫というだけになっているなど、かなりの設定が省かれることがあるが、このマスクによる入れ替わりを省いたら『犬神家の一族』ではなくなってしまうだろう。湖からつき出た死体の2本足もヴィジュアル的に強烈だが、それすらマスクに比べれば別になくてもいい部分だ。となればやはり『佐清の顔』はこの作品の重要部分なのである。

実際『犬神家の一族』の映像化作品の最大の売りもまた、あの衝撃的な佐清のマスクであろう。あのマスクのおどろおどろしさが一時的にせよクライマックスにおいて突然晴れる場面が、猿蔵の驚きの顔なのだ。だからそこはすごく重要であると私は感じるのだ。

佐清の珠世襲撃(のふり)のシーンは流れ的にもきわめて自然だ。ニセ佐清が殺されたことを佐清は東京で新聞により知ったわけだが、今回の殺人は、真犯人に悟られずにこっそり事後処理していた自分(佐清)がいないので、ほうっておくと真犯人があがってしまう。だから急いで、「殺人鬼はこのとおり最後に珠世すら殺そうとした自分である」と見せつけて、そのまま自分が自殺してしまうのが一番いい、そう佐清が考えたととらえることができるからである。この佐清の考えは無理があるが、早急に真犯人をかばわなくてはと気が動転していたのなら、無理があるのもむしろ自然で、あとは原作通りその無理を金田一耕助に突っ込ませればいい。

次に映像化するさいには、ぜひこの猿蔵立ち尽くしの部分、お願いしたいものである。珠世襲撃のあと、佐清が雪山に逃げ、警官隊と撃ち合いになるシーンは金もかかりそうだし、正直別に面白くもないのでなくてもいいですが。

 

日本の漫画文化~現代若者の孤独と無力感

『ドラゴンボール』(無印)を今になって全巻一気読みして、今さらながら少年ジャンプの「強い奴のインフレ」手法の臆面もない使いかたに驚かされたが、このワンパターンをジャンプはなぜ続けることができたのだろう? なぜ読者は最後まで『ドラゴンボール』にジャンプ名物の人気票を入れていたのだろう?

それは、物語がどんどん面白くなっているとか、次の強敵を主人公たちがどう倒すのかという興味とかではなかったはずだ。正直、ジャンプの読者の多くは、中学生レベルで、「強い奴のインフレ」についてはバカにしていた、というかそれでもそれを読む自分たちを自嘲していた。実際『ドラゴンボール』でも、物語や勝敗、キャラの強弱関係は、連載が長引けば長引くほど、無理と矛盾をきたしている。もっともらしい説明がつけられることも多いが。

ファンが『ドラゴンボール』をずっと支持し続けた理由は何だったか? はっきり言って、それは読者が漫画のキャラたちと別れ難くなってしまったからではないか。

新しい敵が出てきたとき、前の敵は味方、仲間になるというのが、少年バトルもののお決まり展開だ。こうして、仲間が増えていく。信頼と友情とに結ばれたひとつのチーム、輪が大きくなっていく。この輪が多くの読者には快くて手放したくないものになってしまったのだ。

特にジャンプは作品の人気を持続させるのに、意識的にこの輪を作品内で作ってきた。

ジャンプは四大少年誌ではチャンピオンとともに後発組であったが、そんなジャンプをジャンプたらしめた初期の人気作『男一匹ガキ大将』からしてそうだ。主人公戸川万吉は、全国の番長たちと戦い、次々と仲間として吸収していき、「万吉一家」と呼ばれるグループを作りあげる。名作といわれるマガジンの『あしたのジョー』は『男一匹ガキ大将』とまったく同時期の作品だが、前者が仲間なしでひとりで戦うのに対し(丹下段平というおっちゃんがいるが一緒に戦うわけではない)、後者は仲間を作るということで、質を異にしていた。(↙)

(↙)『男一匹ガキ大将』に続く看板作『アストロ球団』もそうだ。これは体のどこかにボール型のアザがある運命の野球ナイン9人の仲間を集めるという話で、いわば最初から「仲間もの」であった。さらに続くヒット作『リングにかけろ』などは、ボクシング漫画でありながら途中から主人公が「ひとりで戦う」のではなく、5人がチームになって集団戦で敵と戦う形式と変わり、人気もそこから沸騰した。この『リングにかけろ』においてジャンプのバトルものテンプレは完成されたといえる。

つまりは今の日本の若者の「仲間欲しさ」「輪欲しさ」にジャンプの人気は支えられていた。これは、現代の若者の寂しさ、無力感の反映でもあった。もちろんジャンプ読者にも、普通に友人が多い者はざらにいただろう。それでも漫画のキャラたちは、特殊な能力を持っている、強い戦士であるなどのことで、現実の友だちとは存在意味が違っている。漫画キャラという仲間たちは、無力感とは反対の「全能性」の象徴なのだ。だから、読者はその作品、いや、その仲間たちと離れがたくなる。ジャンプでは死んだキャラが簡単に生き返るのも有名だが、これもそこらの読者心理を反映してのことだろう。大切な仲間、全能性の象徴が死ぬなんてそんな「寂しい」ことはファンとしては絶対に許すことができないのだ。しかし戦いで死ぬことは大きなドラマとなるので、彼らは何度も死に、何度も生き返るということになる。それはまさに『ドラゴンボール』で頂点に達した。いみじくもその何度もの生き返りを可能にするアイテムがタイトルのドラゴンボールでもあった。

これらは今回『ドラゴンボール』を一気読みした私自身があらためて感じたことでもある。新たな強敵が出てくる。それとの戦いがワンパターンなのは目に見えていて、実際「新たな」戦いそのものはもはや面白くもなんともないというか、そもそも「新しく」ない。しかし読める。それは、仲間が増えていくことに理由がある。前回の敵は今日の友。そうして仲間が増えていくと、仲間同士のからみ・ドラマも幾通りも発生し(仲間になった覚えなどねえ、なんていうキャラも多いのだがそういうのも含めて)、そこらに新鮮さが感じられるからだ。

私が今回読んだのは鳥山明氏がじかに描いた『ドラゴンボール』(いわゆる無印)だけだが、『ドラゴンボール』は鳥山氏が作画をしていないものの、このあともさらに作品が描き続けられている。これはたくさんのキャラという簡単に動かせる駒がすでにあるからでもあろうが、その仲間たちの活躍をまだまだ見たい、別れたくないファンがたくさんいたからであろう。また出版社側がそれがビジネスになると思ったからであろう。

漫画というのは、登場人物の自立した存在性が強い。小説の登場人物などとは比べるまでもない。なぜなら小説の登場人物はヴィジュアル、つまりは「肉体」を持たないからだ。かといって映画の登場人物となると今度は実際の人間が演じている分、「実際の人間=非キャラ部分」により、「キャラ」は自立性を差し引かれる。ゆえに漫画こそ「創造したキャラをあらしめる」のにもっとも向いた表現媒体である。実際、あるベテラン漫画家が「漫画というのはキャラが生き生き動いていればいんですよ。ストーリーはどうでもいいんです」と言ったのを私は読んだことがある。これは漫画の、少なくとも現代日本の漫画を、少なくともその人気の秘密を言い表しているように思う。

 

日本漫画と日本企業の論理~『ドラゴンボール』を今更読んで

無印『ドラゴンボール』全42巻を友人がいらないというのでもらって読んだ。私はリアルタイムの少年ジャンプ連載時に全体の前半分くらいは読んでいるんだけど、そんなに熱心に読んでなかった。というのも「かわいくてポップ」な絵柄というのは、個人的に特に関心があるものじゃなかったし、また次々と強敵が現れるバトルとトーナメントというのは、あの時点、ジャンプの定番手法で、もう飽きがきていたからだ。

しかしこの作品はのちに世界的ヒットの作品となった(おそらく世界に広まったのには本である原作よりテレビで見れるアニメの力のほうが強かったのだと思われるが)。そこでこれを機にあらためてどれだけ面白いか読んでみようという気になったのだ。

読んでみるとやはり最初の数巻はあまりページを繰る手も進まなかったのだが、ジャンプ特有の天下一武道会などのトーナメント・バトル漫画になると進みだした。しかし、これも真ん中あたりのサイヤ人編を頂点として下り坂に入りだした気がした。そしてなんだか、作者の鳥山さんは本当に好きでこういうバトルものを描いてたのかなという疑念が湧き起った。

というのも鳥山明といえばまずはデビュー作の『Dr.スランプ』だが、あれを見ていると、鳥山さんのまず描きたかったのは「楽しくかわいいメカやキャラ」だったんじゃないかと思えるからだ。実際に描く才能もそこにあったんじゃないか。ああいったメカを博士が次々と発明しては何かハプニングが起こる。それがデビュー作『Dr.スランプ』の基本アイデアだったのは、タイトルからしても間違いがないだろう。アラレちゃんはそのひとつとして作られたロボットであり、有名な鳥嶋さんという担当編集者に「キミ、この女の子かわいいからこっちを主人公にしなよ」と言われて、そうしたのだという話を読んだことがある。(余談だが『Dr.スランプ』と同時期の『うる星やつら』のラムちゃんも当初は1回だけのゲストキャラのはずだったのに、ヒロインとなったらしい)(↙)

(↙)実際『ドラゴンボール』にもたくさんの「楽しいかわいいメカ」が登場する。それはこの単行本の表紙にも多く描かれている。こういうの見ていると、やはりそっちが描きたいもので、必殺技やバトルというのは鳥山さんの少なくとも一番描きたかったものじゃなかったって気がしてくるのだ。案の定、調べてみると、『ドラゴンボール』も当初の冒険パターンでは人気が出なかったので、ジャンプお決まりのバトル路線に変更になったのだという。そしてそれで人気が出た。

しかし『ドラゴンボール』においては(私はあまり関心がないとはいったが)絵など初期のほうがずっと生き生きしていると思う。後半になるとバトル描写こそ迫力が増しているが、キャラの表情は無味乾燥的になり、最後の10巻ほどになると、特に主人公である孫悟空からは目の輝きが消えてしまっている。ここらはマンネリと作者さんの長期連載のための蓄積疲労のためもあるのかもしれないが、こういうのを見せられては、作品外のテンプレで作品が続行されているという印象を受けてもしかたがないというものだろう。

実際、鳥山さんも『ドラゴンボール』の後期には連載の終了を申し出ていたという。しかし、看板漫画を終わらせることを、出版社側、つまり企業の論理は許すことがなかった。版元側は、ファンが毎週のアンケートで投票していたんだから、というかもしれないが、そういうアンケート反映システムを作り、自らそれに従っていたのは出版社なのだから、やはり、げに恐ろしきは企業の論理というべきだろう。

恐ろしき企業の論理・・・結局、鳥山さんが69歳でなくなったのもこれが根本理由だと誰もがそう理解してしまうというものである。日本で漫画が発展したのはこのような早世に至るようなこき使いシステムがあったからかもしれないが、日本の漫画、アニメが世界に広まっている現在、しばらくすれば、ジャニーズの少年性虐待のように国際的に問題にされるときが来ないとも限らないのではないか。

 

物を捨てることによって今一番大事なものが分かる

物を捨てる理由として、この前、新陳代謝のため、ということを言ったけど、新陳代謝するのは持主だけじゃないということを補足したい。物自体、特に本もそうやって新陳代謝できる。捨てることによって、その本もまた新しくなってよみがえり、私の目の前に帰って来るということである。

またいまひとつ、物を捨てることのメリットとして、今の自分にとって何が一番大事かということが分かるというのがある。要らなくなったものは捨てるというのは考えてみれば当然の行為であると思う。もちろんとっておくという手もある。しかしとっておくというのはよほどの記念の物だけでいいのではなかろうか。もう使い果たした、あるいは飽きたのにその物に執心し置いておくというのは自分の前進を妨げることになるのではなかろうか。

古代ギリシアのある哲学者は収入源だった持ち船が沈んだ時こう喜んだという。「これでこれからは哲学することにたよらざるを得ない人生になった」。捨て身と言う言葉があるが、「身」とはつまり自分の持つ「物質」のことを言うのだろう。人間が最大の力を出す方法である捨て身。捨て身で生きるには余計なものは捨てなくてはならないのが道理なのだ。

 

江戸川乱歩 全『長編』一行感想

短編に続いて、今度は長編です(『怪人二十面相』などジュブナイルはのぞく)。またネタバレありとあるのは、ネタバレ部分を白文字にしてますので、ご覧になれる方は反転させてごらんください。★は同じく5点満点です。

 

『闇に蠢く』★

人肉食いの話。向こう受けを狙いすぎたか、やりすぎの感あり。乱歩はもともとポーにならい探偵小説は短編が至上との信念でスタートした作家だったが、2年で30近くもの好短編を書いたためにネタがつき、気に沿わないままに、読者サービスで乗り切ることがしやすい長編に転向せざるを得なくなった。その苦悩と苦闘が出ている。

 

『湖畔亭事件』★

のぞきレンズのところは乱歩らしいが、ちょっと後半理屈っぽくなって尻すぼみ。読み終わったあと、どんな話だったっけと思い出せない。

 

『パノラマ島奇談』★

乱歩の代表作のひとつだが、私は乱歩の人工ユートピア描写は退屈なのでキライ。生き返ったなんて信じるなよ(笑)。(↙)

 

(↙)『一寸法師』★★★

乱歩の通俗長編の原型となった作品。初めての新聞連載ということもあって整合性の弱いところも多いのだが、謎めかした雰囲気の下町描写が個人的に好き。

 

『陰獣』★

乱歩の最高傑作とも言われる作品。しかし私は好きじゃない。ラストもぼかしが入っていて、全体的につかみどころがない感じが好みじゃないのだ。サドマゾも嫌い。

 

『孤島の鬼』★★

この作品も評価、人気とも高いが私は好きじゃない。エログロ性は強いものの、全体からいうと乱歩らしさに乏しいと思う。もっとも乱歩らしさは案外人それぞれかもしれない。私の場合は「都会の幻想」「都会の冒険」というところがある。

 

『蜘蛛男』★★★

乱歩が通俗長編を今後書いて行くとふっきれた第1作。もうやりたい放題だが乱歩はそれのほうが面白い。大人になってから再読したとき、ちょっと残酷すぎると思ったが。

 

『猟奇の果』★

もうSF入っちゃってます。これはやりたい放題というより受けようとして滅茶苦茶にしてしまった感じ。

 

『魔術師』★★★ネタバレあり

乱歩の通俗長編では一番よいという人も多い作品。確かに密度は濃い。乳児時の子供すり替えによる復讐は、無理があるという指摘は野暮か。

 

『吸血鬼』★★

『吸血鬼』と銘打ってるが犯人は作中ほとんどそうは呼ばれずあまり乱歩の犯罪者としては個性的でない。動機も無理付けが露骨だし、登場人物の性格にも矛盾がある気がする。明智の助手小林少年初登場作品。

 

『黄金仮面』★★★★

黄金仮面はのちの怪人二十面相につながるキャラクター。キャラ立ちは乱歩の通俗長編ではトップだろう。事件はオムニバス的。

 

『盲獣』★★

「触覚の芸術」という発想は面白いと思う。だが話としてはワンパターンなエピソードが続くだけ。短編でもよかったんじゃないか。ところで、この作品でときに出版時カットされてきた「鎌倉ハム大安売り」の部分だが、これって三島由紀夫の『仮面の告白』に出てくる血のジュースを販売するという妄想に影響与えたんじゃないだろうか?

 

『白髪鬼』★★★★

翻案もの。乱歩は長編のガッチリした構成力がないのだが、語り口はうまいので読ませることができる。その語り口のうまさがもっとも効果的に出た一人称復讐譚。

 

『恐怖王』★

自他ともに認める失敗作。完全にあとさき考えてない作品。ネタがつきたやっつけ作品。

 

『地獄風景』★

『パノラマ島奇談』の別ヴァージョン的作品で、結末はパノラマ島とは逆。

 

『妖虫』★★

漫画的というかサソリの着ぐるみが出てきたり特撮チック(笑)な作品。全体ちょっと強引。なんでサソリなんかもよくわからないし。

 

『人間豹』★★

これもかなり漫画的で人間豹のキャラづけはかなり無理があるが、明智をもっとも手こずらせたのがこの人間豹かと思う。まあ、ネタがなくなってきたので、ここらで明智に苦しんでもらうかということでそのような展開にした気もするが。『魔術師』『吸血鬼』『人間豹』は明智夫妻三部作とでも呼ぶべきもの。

 

『黒蜥蜴』★★★★

黄金仮面を女に置き換えたような話。出たとこ勝負が顕著な乱歩の通俗長編としてはもっともまとまっている。キャラも立ってる。

 

『緑衣の鬼』★★ネタバレあり

原作の『赤毛のレドメイン』は本格推理。本格推理の骨格と乱歩のスリル指向がうまく調和しているともとれそうなのだけど、死体が消えすぎじゃないか。いつも誘拐された女が助かってるのも普通はもっと怪しいと思うはず。翻案小説じゃなかったら探偵役は明智小五郎をそのまま使っていたと思う。

 

『大暗室』★

「名探偵vs怪犯罪者」という構図を、正義と悪の異父兄弟に置き換えたものだが、あまりその必然性もそこのところの魅力もない。ネタ尽きによるものか。人気女性歌手のところの風俗描写は戦前にしては意外で興味深い。

 

『幽霊塔』★

翻案もの。かなり間延びしている。雰囲気がどことなく横溝正史風。横溝作品が間延びしているという意味ではない。

 

『悪魔の紋章』★★

『蜘蛛男』と『魔術師』をあわせてできたような作品。もはやマンネリは隠しきれない。「悪魔の紋章」と呼ばれる指紋の扱いはどうでもいいような気もするが。

 

『暗黒星』★★

短いだけにまとまってはいるが、いわゆるミステリーによくある「館もの」なので、乱歩の通俗長編の魅力である「変幻さ」に乏しい。『魔術師』を館ものとしたような作品。『グリーン家殺人事件』の影響が濃い。

 

『地獄の道化師』★★★

私が初めて読んだ乱歩作品なので、思い入れがあるから★ひとつ多いかもしれない。なぜ犯人はピエロに扮するかの意味もちゃんとあり、地獄の道化師のイメージも立っている。初めて読んだ時は真犯人にびっくりしたなあ。

 

『幽鬼の塔』★★

翻案ものだが、全体的に登場人物の行動が不自然で未消化感がある。全体的に乱歩らしくはない。

 

『偉大なる夢』★★★★

戦中、軍に協力して書かれた防諜、国策小説ということで、乱歩は自分が生きている間、出版を認めなかった作品だが、露骨な自国賛美などなく案外気持ちよく読める(それとも手を入れてるのかな? それはそれでいいけど)。真相の驚きは乱歩作品でも抜きんでていると思う。スケールも大きく隠れた名作。

 

『三角館の恐怖』★★

戦後、久々に書いた大人向け長編。翻案ものだけにまとまってはいる、というか、原作「エンジェル家の殺人」を読むと驚くほどそのまんまだった。創作の意欲尽きしか。

 

『化人幻戯』★★

60歳にして書かれた乱歩唯一のオリジナル長編本格推理。それを書くことは乱歩の長年の夢であったが、ほとんど敗戦処理で終わった。トリックも凡庸。戦前の通俗長編の面白さもない。ラストの犯人の告白の怖さで一点追加。

 

『影男』★

戦前の通俗長編の線を狙い、かつ乱歩独特のユートピア願望を展開した作品だが、もちろん2番煎じ。タイトルも適当感あり。

 

『十字路』★

乱歩唯一の書き下ろし長編だが、プロットは別人によるもの。乱歩らしさはほぼ皆無。テレビの2時間サスペンスドラマと言った感じ。

 

『ペテン師と空気男』★

大人のイタズラ小説。書いてる方もほとんど遊びだろう。

 

■まとめ

結局、長編のほうでは、満点★5つの作品が出なかった。やっぱり乱歩は短編のほうが作品としては高い位置にあるってことだと思う。→『江戸川乱歩 全短編一行感想』