ある幻想画家の手記

絵画、芸術について思いついたことを書き記してます。画廊はこちら『第三都市幻想画家 福本晋一 ウェブサイト』 http://www7b.biglobe.ne.jp/~fukusin/ 歴史・事件論の『たまきちの「真実とは私だ」』もやってます。https://gensougaka.hateblo.jp/ メールはshufuku@kvp.biglobe.ne.jpです。

ちばあきお小論 全国大会を避け続けた『キャプテン』と『プレイボール』

最近漫画をよく読む。しかし最近のマンガは読まない。自分が子供の時に読んでた漫画をまた読むのだ。これは、新しいマンガは時代感性的にあわない、というより、単に私が大人になってしまったからだろう。漫画は子供のほうが熱中できるものである。昔のマンガを読んでると面白いというより、その熱中性やなつかしさがよみがえってくる。だからそこを足掛かりに読める。だから読むなら昔の作品となってしまう。

そんなふたたび読んだ漫画に、ちばあきお作の少年野球漫画『キャプテン』がある。今回このマンガを読んでて少し気づいたことがあるので書いてみたい。

『キャプテン』は変わった作品だ。主人公が代替わりしていくのだ。墨谷(すみや)第二中学、略称:墨谷二中の野球部を舞台として、代々のキャプテンが主人公をつとめる。当初は初代の谷口タカオの物語にする予定だったようだが、人気が出たので、谷口の卒業後も続きが描かれることになった。ここで話はふたつに分かれる。ひとつは高校に進学した谷口の物語であり、もうひとつは墨谷二中の次代キャプテンの物語だ。前者は『プレイボール』と銘打たれ、別の高校野球漫画となった。

もちろん私が今回気づいたことというのは、この変わった構成のことではない。『キャプテン』にしても『プレイボール』にしても、大舞台を避けてるということを言いたいのだ。

初代・谷口キャプテン編では、地区大会を勝ち進むものの、決勝で全国大会優勝の常連たる名門青葉学院に敗れる。そして青葉はそのまま全国大会に出て優勝するのだが、青葉の監督は墨谷との地区決勝で、ルール違反のごり押しをして勝ったのだった。このことが連盟にばれたがために再試合となり、大特訓の末、今度は墨谷が勝つ。ここで谷口編は終わる。

2代目丸井キャプテン編では、前年の健闘が認められた墨谷は春の選抜全国大会に出場する(中学だが、大会の設定は高校野球と同じになっている)。しかし1年生近藤のまずい守備により1回戦で敗退する。そのため墨谷は合宿による大特訓で力をつける。そして夏の地区大会決勝で再び青葉学院と激突。延長18回の激闘の末サヨナラ勝ちをおさめる。が、選手は疲労でボロボロになってしまい、全国大会は棄権。ここで丸井編が終わる。

3代目イガラシキャプテン編では、再び春の選抜に選ばれた墨谷は優勝を目指し、またまた大特訓を開始するのだが、あまりのハードスケジュールが父兄のあいだで問題となり、ついには負傷者までが出たゆえ、全国大会の辞退を余儀なくされる。ナインは夏にかけることを誓う。

・・・と、途中までのあらすじはこうなのだが、あきらかに作者は全国大会トーナメントという場面を描くことを避けている。『プレイボール』のごとくはあれだけ長いマンガでありながらついに墨谷高校のナインが甲子園の土を踏むことはなかった。

これの理由は、作者のちばあきおという人が全国大会という大舞台や、通常の少年漫画では檜舞台となるバトル・トーナメントを描くタイプの漫画家ではなかったからだろう。ちばあきおは兄のちばてつや氏同様、下町を舞台に描くタイプの作家であった。いわば学校の野球部とはいえ、基本的には少年草野球の世界を描く作家だったのである。

だから「キャプテン」だったのだ。墨谷二中も、墨谷高校も監督はいない。トップはキャプテンである。これは相手チームもそうだ。上記の『キャプテン』のあらすじの中でも監督が出てくるのは、倒すべき強豪・青葉学院だけである。そののちも監督が出てくるのは超強豪校だけだ。

ここまで言えば大体、ちばあきお作品の世界がどういうものかわかってくる。

ところが、『キャプテン』のあらすじの続きを書くと、イガラシキャプテン編の夏の大会では、地区大会優勝から、全国大会優勝までをびっしり描いている。少年漫画のバトルもののテンプレどおりの展開になっているのだ。

これは作者の本当に描きたかったものだったのだろうか? 

実は私は、このイガラシ編の地区大会決勝が終わったところで読むのをやめている。子供ながら、春の全国大会で青葉を下した西日本の強豪・和合中と決勝を戦い、そこで勝つという先が読めたからである。それに地区大会決勝戦である江田川中戦は『キャプテン』史上最高のゲームで(あとから全部読んでもその印象は変わらなかった)、私はここで十分満足、これ以上の試合はありえないと思ったからである。もちろん当時は小学生だったのでこのように理由を言語化できたわけではないが。

ともあれ地区大会までがちばあきおの守備範囲だったからここが頂点になったのではないか。ちなみに江田川中学は『キャプテン』における墨谷二中の最初の対戦相手であり(つまり谷口編の最初の試合)、両方の試合での敵投手井口は、イガラシと草野球をやっていた幼馴染であった。

今回再読して、ふと下町の少年草野球漫画に徹していたら、ちばあきお氏もあのような早い死を迎えなくて済んだのではないかと思ったのである。どうか。



 

パンツァーリート(戦車の歌)を日本語で歌ってみよう!

映画「バルジ大作戦」のオープニングでドイツ兵が歌うドイツ軍歌「パンツァーリート(戦車の歌)」を歌えるように和訳してみました。この曲は脚韻の部分の止めが特徴的なので日本語でもそこを生かして訳しました。ただし1番だけ。「バルジ大作戦」でもここを繰り返してずっと歌ってるし。しかしこの歌、下の書き取り楽譜を見てもわかるとおり「顔は汚れても 陽気なこの心と」のところが1小節多くて、歌うのなかなか難しいですね。

 

風吹けど 雪舞おうと

うだる日も いてつく夜も

顔は汚れても 陽気なこの心よ

嵐行くは わが戦車

 

 

 

神戸人は「北・南」を「山側・海側」なんて言わない

神戸人は、北と南のことを「山側」「海側」と呼ぶと紹介されるのをたまに目にする。ウソである。元町大丸百貨店内のエスカレータ表示がそうなっているのが面白いから広まっただけだろう。

では、どういうのかというと、北、山側とは言わず「上」、南、海側とはいわず「下」というのだ。「なるほど、北は地図で上だものな」と思う人がいそうだが、そうではない。いや、それもないではないが、それ以上に、山から海に向かって勾配がついている土地だから「高い場所」という意味で「上」、「低い場所」という意味で「下」というのである。

だから「私の家は43号線の下」といったら、「国道43号線の南」あるいは「国道43号線から見て海側」という意味である。43号線の高架道路の下に家があるという意味ではない。

「上」と「下」――それは北とか南とか、あるいは山側とか海側を言っているのではない。単純に、そこにある「上」と「下」なのである。そしてその表現で実際に事足りるのである。驚かれるかもしれないが、この言い方をしていることを当の神戸人があまり気づいていない。あまりにそれが当たり前の言い方だからだろう。元町大丸のエスカレータが「山側」「海側」になっているのは、ここで「上」「下」と表現すると、階の上下と混乱するのと、会話のような文脈なくいきなり「上」と「下」ではさすがにとまどうからであろう。

ちなみに、神戸人は山があるのが北、海があるのが南だと思っているともよく紹介される。こっちのほうはネタでなく、本当である。頭ではそうでない場所などいくらでもあるとわかっているが、実際に山や海を見るとそう思ってしまうのだ。私もよく誤認識します。

三島由紀夫と岡田有希子~共通するその衝撃の死と内面

精神分析学者の岸田秀の「三島由紀夫論」にこういう文章がある。

三島由紀夫の精神ははじめから死んでいた。(中略)彼は、死の最後の瞬間まで、自分が本当に何を欲しているか、どう感じているかをつかんでいなかったであろう。それはつかむべくもなかった。存在してなかったのだから」

私はこれを読んだとき、とっさに、1986年にこれも衝撃的な自殺を遂げたアイドル歌手・岡田有希子さんのことを思い出した。というのも、彼女の生前、ある私の知り合いの女の子がこんなことを言っていたからである。

「なんか岡田有希子って人形みたい。自分の意志がないって感じ」

それを聞いて私は「へえ、そう?」ってくらいに気に留めなかったが、ある日、ある漫画家さんが作者近況報告みたいなページに「ぼくは、岡田有希子ちゃんとか、原田知世ちゃんみたいなちょっと暗い感じのする女の子が好きです」と書いてあるのを見た。「ふーん、人によればそう見えるのかねえ」そのときも私の感想は別に変らなかった。私には、人前で歌を歌うのを商売にするような人間が「暗い」なんて思えなかったからだ。彼女の自殺の報を聞いたときも、驚きこそはしたが、上記の「意志がない感じ」とか「暗い」とかとの意見と結びつけはしなかった。何があったんだろう? と思っただけである。

それからも別に岡田さんの死を探ることなどしてないが、ふと週刊誌で、彼女のお母さんの手記が載っているのを目にした。そこにはこう書かれていた。

「あなたが死んでからお母さん、お父さんと別れました。昔からダメな夫婦だったものね」

これを見たとき、両親の仲の悪さが、早すぎる彼女の死の遠因――いや、最大の原因のように私には感じられたのである。またこのとき思い出したのが、岡田さんの生前に、岡田さんは歌手になるのを親に反対されたが、学内試験で1番になったら認めるといわれ、猛勉強して本当に1番になったという話だった。これも確か上記の女の子から聞いたと記憶している。そして岸田秀氏の「三島由紀夫論」を読んだとき、岡田有希子さんは三島由紀夫氏と同じだと直感したのだ。

生き生きしたところのない死んだ精神。この世に生きている実感の欠如。本当に笑うことのない眼――

三島氏も、両親の仲が良くなかった。そして学校の成績がよかった。優等生であった。岸田氏は「この両親はおのおの自分への息子の愛情をめぐって競争しているように見受けられる」と感想を述べている。さらに三島さんの場合は独占欲の強い祖母が加わる。彼を奪い合い、彼への要求が異なり対立する3者が三島さんの精神を殺してしまったのだ。自分が本当に何を欲しているか分からない人間、この世に生きている感覚がない人間に――。のちの三島さんの有名な人工的豪傑笑いは、その能面のような無感動を隠そうとする努力にすぎなかったのだ、と岸田氏は言う。ならば、三島氏が暗い書斎から飛び出して、日の当たる政治的軍事的行動のような死に方をしたのは、そこに自分が生きていると感じ取れる世界、否、舞台があると思ったからに違いない。

そしてそれは、岡田さんもそうだったのではあるまいか。舞台でスポットライトと歓声を浴びる華やかなる自分。そこでこそ、自分が生きていると感じられるはずだと彼女には思えた。だからこそ、あれほどまでして歌手になりたかった。しかし、それすらも彼女に生きている実感を与えることはできなかった……。

三島由紀夫岡田有希子、ともに本名ではないが、さわやかな響きが似ているのも何か偶然でないものを感じる。

彼女の死については相変わらず男性タレントへの失恋説がいまだ幅をきかしているようだが、それは結局、岡田さんの死を芸能界のゴシップとして楽しみたいだけの話にすぎないのではあるまいか。仮に失恋が本当だったとしても、彼女の死の原因はもっと根本的な彼女自身の生の実感の欠如そのものにあった気がするのである。

あの時もあの場所も過ぎ去った

きのうは、久しぶりに、むかし勤めていた会社の前まで行ってみた。近くに用事があったついでだったが。

少し、なつかしさという感興をもよおすことができるかなと思ったのだが、実は私は、むかし居た場所に行っても、なつかしいという気持ちなど起こらないことをすでに経験で知っていた。金と時間をかけてまで来るんじゃなかったと思うことのほうが多い。

そして、やはりだった。そらそうだ。もう、そこは私がかつていたのと同じ場所ではないからである。会社の人間もほとんどが変わったであろう。知ってる人ももはやすれ違っても分からなくなっているのかもしれない。もう別の場所なのだ。その場所がかつてと様相を変えていてもいなくても同じこと。あの時間はもう過ぎ去ったものだし、あの場所ももう過ぎ去ってしまったのだ。

むしろ、なつかしさよりも感じられるのは、その寂しさのほうである。いや、そんな抒情的なものではない。はっきりいえば、そこにあるのは、しらけた感覚であった。

むしろ刺激を与えてくれたのは、新しい発見のほうだった。周辺を歩いていても「へえ、ここは小さな問屋さんが並んでいる街だったのだな」とか「こんなところに一軒家があったのか」とか、気づかなかった街の姿が見えた。記憶にあるのは、昼食を買ったところ、食べたところ、夜に行った飲み屋とか、そういうものが中心で、あのとき、それ以外のものは目に入っているのに見ていなかったのである。サラリーマンというのはそういうものか。これはちょっと驚きだった。

しかし、そういったしらけも、再発見もひとつの体験であろう。それもまた、人生のその瞬間だけに確かに存在したドラマなのだ。だからこそ、私はきのう、その場所を去ろうとしたとき、「もう二度とここに来ることはあるまい」と考えていたのだ。

来るんじゃなかった、ということが再確認できただけでも、来てよかったのかもしれない。

 

『千と千尋の神隠し』は『じゃりン子チエ』へのオマージュ!?

宮崎駿監督の『千と千尋の神隠し』(2001年)は、高畑勲監督の『じゃりン子チエ』(1981年)のオマージュ作品なのだと思う。両親を失い(本当はどちらも失ったわけではないけど)、まだ小学生である主人公の少女が働かざるをえない宿命となり、いろんな怪物(『じゃりン子チエ』に出てくるナニワのオッサンたちも怪物みたいなもん)と出合いながらも、たくましく生きていく、という主筋も同じならば、チエのほうを千絵と書くと、名前も近い。髪の毛をひとくくりにしていて、そんなに美少女風に描かれてないところも同じだ。

これは宮崎監督のほうはかなり意識してやったんじゃないかと思う。それは以下の画像を比較してみれば分かっていただけるんじゃないかと思う。

とても偶然とは思えぬ。

ついでにこれも、吊り目、前髪パッツンで似ていると言ったら強弁なのだろうか。

 

 

10年ぶりの自画像

 私はあまり自画像は描きませんが、前描いたのがちょうど10年前の2012年だったので、ちょうど区切りもいいので描いてみました。自画像描いたら描いたでまた自分のこと何か分かるかもしれないとも思いまして。まず10年前、2012年の自画像から。

 自画像 27.2×22㎝ 油彩 2012年 
そしてこれが今回描いたもの。同じF3号サイズ。ただしキャンバスは手作りの荒目を使用。あとでサインの位置変えたんですが。
 

自画像 27.2×22㎝ 油彩 2022年

うーん、さすがに年とったよなあ。それはしょうがないとして、なんか疲れが出てる、憔悴してる感じ。これ描いたとき、特にそうだったのはあるかも。だから描きたくなった。しかし、年とったというより骸骨じみてきた感じがします。まあ、年とるということは骸骨になる方向へ近づいていくということですが・・・。

それとさすがに細かく描くことはしにくくなってきましたね。しにくいし、やりたくない。ならばもうフェルメールの模写なんて難しいのかも・・・。なんてたってフェルメールは43歳で死んだ若い画家ですからね。もっともフェルメールも30代後半では、細かく描くことはできにくくなっていたようで晩年の作品はディテールが荒いことで有名です。私は、彼がカメラ・オブスキュラを使って描くことによって、それで何か眼を悪くさせることがあったんじゃないかと疑っているんですが・・・。