ある幻想画家の手記

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レオナルド vs ミケランジェロ どちらが勝ったと言えるのか

 レオナルド・ダ・ヴィンチの『アンギアーリの戦い』と、ミケランジェロの『カッシーナの戦い』は、フィレンツェの同じ宮殿の同じ部屋に、同時に描かれるはずの壁画であったが、両者とも作品は残っておらず、多くの詳細がいまだ謎のままである。その謎の中で私が特に興味をひかれるのは、ミケランジェロがなぜ下絵を完成させたものの、本番の壁画を描かず、ローマ教皇の求めに応じてローマに去ってしまったかということである。

これにはふたつの説がある。ひとつは、これはふたりの対決だったのであり、ひとつはミケランジェロが下絵の段階で、レオナルドより自分のほうが上、すなわち「自分が勝った」と思ったので、もう壁画自体を描く必要はないと思ったからというもの。もうひとつは逆で、「負けた」と思ったから本番を描かずに逃げたというもの。もちろん単純に教皇聖下のお呼びなのだから、今やってる仕事だろうがほっぽらかしてローマへ向かったという筋も考えられないことはない。またこの両壁画は、55歳のレオナルドの画面が大きくてそれが「主」、30歳のミケランジェロの画面は小さくて「従」という、いわば共作だった可能性もあり(実際『戦い』と題されているがミケランジェロのほうは戦闘場面を描いたのではなかった)『対決』『腕比べ』といったものではなかったとの推測もある。しかし、当時の美術家は、現代の芸術家と違い「俺には俺の世界がある」という割り切りなどなく、腕の良し悪しが評価されるほとんど職人的世界だったわけだから、「優劣」にはこだわっていたと考える方が自然であろう。ましてや気性の激しかったミケランジェロである。
 
そう、だからこそ不思議なのだ。いかにローマ教皇のお呼びだろうと、対決これからたけなわというときになぜ去ったか。
 
実際のところミケランジェロが勝負にこだわっていたことを裏づける記録が残っている。それは、チェリーニという人物が、のちのシスティーナ礼拝堂の天井画や壁画でさえ、『カッシーナの戦い』の下絵の偉大さの半分にも及ばなかった、ミケランジェロの想像力は二度とこの下絵のレベルに達しなかった、と書き残していることだ。
 
これは重要な記述、というか尋常な表現ではない。下絵時点で、あのシスティーナ礼拝堂の倍以上のすばらしさ! ちょっと想像しにくいのだが、『カッシーナの戦い』の下絵はサンガルロによる模写(下図)が伝わっているものの、チェリーニの目利き、証言が確かなら、ミケランジェロ自身によるオリジナルの下絵は圧倒的に素晴らしいものであったと考える他はないのである。
 
実際ミケランジェロ『カッシーナの戦い』に全身全霊を投入してきたのは間違いがない。というのも、ミケランジェロひとつのプロジェクトに集中するタイプの作家であったからだ。ヴァチカンのピエタフィレンツェダビデ、そしてのちのシスティナ礼拝堂しかり。平行作業はせず、別の制作が入ると、どちらかだけを選ぶのが彼のやり方だった。
 
 
しかしそれほどまでに素晴らしいものだったからといって、ミケランジェロが下絵の時点で「勝った」と思ったかというとそうは簡単に言えない。相手は数年前、ミラノに驚嘆の壁画『最後の晩餐』を描いたレオナルド・ダ・ヴィンチなのである。
 
この『カッシーナの戦い』にはレオナルドの『最後の晩餐』の影響も見てとれる。というのは、人物描写の多様性という面で共通しているからである。それまでの絵画における複数の人物描写は同じようなしぐさの人間がたくさん描かれているだけで単純なものであった。ひとりひとりに意味のある違う動作を表現してみせたのはレオナルドがはじめてといえるのである。そういったしぐさの多様性がこの『カッシーナの戦い』にも出ている。ミケランジェロはミラノには行ってないので、レオナルドの『最後の晩餐』を実際には見ていないが、評判は聞き知っていただろう。あるいは模写されたものを見ていたかもしれない。
 
ミケランジェロがレオナルドの作品と自分のを比べてどう思ったのかを推理するには、レオナルドの『アンギアーリの戦い』の下絵がどのような出来だったかを考えなくてはならない。
 
といっても、ここからは多分に私の想像が入るが、レオナルドの下絵は、中心部の騎馬による軍旗争奪シーンこそは完璧に描かれていたが、ほかの部分は結構適当なものだったのではないかと思えるふしがあるのである。
 
レオナルドは壁画を描くのに当時あたりまえであった技法のフレスコを使うことがなかった。『最後の晩餐』はテンペラだし、この『アンギアーリの戦い』は特殊な油絵だ。これはレオナルドが遅筆で考えながら描くタイプであったからである。フレスコは最初に全体の画面を決定し、かつ本番作業に入ったら1日に描く分の漆喰を塗り、それが乾ききるその日のうちにその範囲を描き切ってしまわなければならないという非常に制約のある技法である。とにかく常に決めてかからねばならないのだ。これが遅筆のレオナルドには抵抗があった。だから『最後の晩餐』はテンペラで描いたのだが、テンペラテンペラで、壁画の場合には保存性に疑問があった他、塗った先から絵具が乾いていくという特性をもっているので、実はこれもレオナルドのじっくりと描く性格にはあっていなかった。そこで『アンギアーリの戦い』では、技法的にはさらに冒険になるが、じっくりゆっくり考えながら描け、途中での変更も容易な油絵を使用することにしたのだった。
 
となるとである。『アンギアーリの戦い』の下絵は、メイン部分はそれなりに描きこんではいたものの、画面周辺の部分は結構アバウトにしておいたのではないかと思えるのである。付属的な部分は、あとで全体を見ながらゆっくり考えようというわけだ。それはレオナルドの未完成の油絵『三王礼拝』や『聖ヒエロニムス』を見ても思える。この2点などは下描き段階で全部を決定できない絵師が無理に下描きをフィックスしようとああやこうやと考え続けたから未完成に終わったのではないか。実際『アンギアーリの戦い』の模写は中央部の騎馬による軍旗争奪シーンしか残されておらず(下図)、レオナルドの手稿によれば、遠くに見える戦闘は巻き立つ土煙で見えにくくなるはずであるなどと書き残されているのだから、やはりメイン以外の部分は、下絵ではそれほどはっきりと描いてなかったのではなかろうか。だからその部分は模写もされなかった。
 
 
対してミケランジェロの下絵はフレスコ前提のものだし、また上記のチェリーニのような大賞賛を受けるくらいだから、画面いっぱい隅々まですごい密度と精確さで描いてあったと考えられるのである。サンガルロの模写からもそれは察せられる。
 
ということはこうなる。ミケランジェロのほうはこののち、色彩配分という作業があるにせよ、基本的にあとはこの下絵どおり描くだけである。対してレオナルドのほうはこれからがまさに本番。絵がだんだんと成長、開花していきだすのだ。つまりミケランジェロは、もう下絵ですべてを出し切ってしまった。下絵そのもので比べるとレオナルドに決して負けなかった、しかし、これからの本番でその評価がくつがえるかもしれない事態となったのである。
 
ミケランジェロのほうは下絵からの上積みはあまり見込めない。むしろこの下絵こそ全力を出し切った完成作品。ならばもう本番の壁画を完成させる必要も気力も薄くなっていたかもしれない。絵の具で新たに描き起こしたら、これより出来が悪くなる可能性もある(下絵のほうがいいってことは実際よくある)。しかも使うのはフレスコ。本番は下絵みたいに、じっくり描くわけにはいかない。ならば、制作はここで終わらせるのがベスト。そう思ったのではないか。あるいはレオナルドの遅筆はすでにあまねく広まっていたから、ひとまず時間はありそうなので、とりあえず一旦作業を中断してローマへ行った。あるいは自分の下絵をもとに誰か他の者が描けばいいとも思ったのかもしれない。これも当時よくあることであった。
 
どうにせよ、ミケランジェロは下絵を公開した直後、ローマへ去っていった。そしてレオナルドのほうは制作にかかった。もし、レオナルドも、ミケランジェロのような若造に負けてたまるかい、なんて対抗心を燃やしていたのであれば、逆にこっちは是が非でも本番にかからねばならなかったわけである。実際、ミケランジェロはこの壁画に取り掛かる前に『聖家族』という絵画を完成させているが、これがまた非常にクオリティの高いもので(この絵もレオナルドの聖母子像の影響が見てとれるが)、もしレオナルドが見ていたのなら、相当対抗心を燃やさせたものであると思えるのである。
 
しかし、レオナルドが試みた「壁画に油絵を使う方法」はすぐに欠陥が明らかとなってしまう。中央の軍旗争奪シーンは何とか出来て絵具も乾かせたものの、上方の絵具は乾かずに流れ出し、結局こちらも制作は放棄されて、レオナルドは彼の第二の故郷ともいえるミラノへと去ってしまった。
 
それから数年間、この2作品の下絵はそのまま放置、そのあいだに他の画家により模写されて、それが今伝わっているわけであるが、やがてどちらも破られて消失。レオナルドの描きさしの壁画は塗りこめられたかして、宮殿のどの壁に描かれたかも分からなくなってしまった。そしてこののち、このふたりの巨匠の邂逅したエピソードはない。
 
しかしローマへ旅立って1年後、ミケランジェロ教皇との不和によりフィレンツェに1度戻ってきているので、当然このとき、見事な軍旗争奪シーンと無残に絵具が流れた『アンギアーリの戦い』を見たはずである。それを見てミケランジェロは何を思ったか。少なくとも「自分が勝った」などとは思わなかったはずである。もし「レオナルドの奴、失敗しやがった」とほくそ笑んだのだとしたら、それはのち自分に跳ね返ってくることになったと言ってよいだろう。ミケランジェロもまたレオナルドと同じく、大理石に亀裂が入ったなどの理由から、多くの未完成作を残すことになったのであるから。