ある幻想画家の手記

絵画、芸術について思いついたことを書き記してます。画廊はこちら『第三都市幻想画家 福本晋一 ウェブサイト』 http://www7b.biglobe.ne.jp/~fukusin/ 歴史・事件論の『たまきちの「真実とは私だ」』もやってます。https://gensougaka.hateblo.jp/ メールはshufuku@kvp.biglobe.ne.jpです。

個性・スタイルはどうすればできるか

 最近つくづく思うのは、当たり前のことかもしれませんが、「今の自分以上の作品は描けない」ということです。エンターテインメントの作品なら別かもしれませんが。

「今の自分」というのは、今の自分の「状況、環境、感情、こだわり、才能、体力などなど」すべてを含んだものです。
 
私は、絵を実際に描くまでは、いかにも芸術作品みたいな、もっとドロドロした人間の根源的情念みたいなすさまじいものを描きたいというか、描くべきだというか、描くだろうというか、そういうイメージを漠然と持っていたんですが、実際、描いてるものはそれと全然違うものになっています。まあ、良くも悪くも、これが私、今の私ということなんでしょう。今の自分以上のものも描けないし、今の自分「以外」のものも描けない。
 
つまり、個性やスタイルというのは、人格においてのそれと同じく、作品作りにおいても自然と出てくるものなのだと思います。無理に作っても偽物だ。まあ自分にとって本物であっても、それがどれだけ他者、つまり社会的、あるいは美術史、美術界的に強力な存在であるかとなるとまた別の話ですが。
 
 
 38×45.5㎝ 油彩
 
だから、作品づくりにおいて、自分の個性、スタイルの出し方というものがあるとしたら、結局、自然に生きることなのだと思います。早い話が、自分のやりたいことをやりたいようにやって生きる。これだけ。いや、作品づくりに限らず、個性というそのものが結局、自分のやりたいこと、生きたい生き方してることの反映なのだと思います。だから個性的になりたかったら、自分のやりたいことを遠慮なくやることです。本音で生きると言い換えてもよい。やりたいことを我慢してしまう性格は、性格であっても、個性ではないと思います。もし自分は個性がないと悩んでいる人がいるなら、結局のところそれは、やりたいことをできてないという悩みなのではないでしょうか。やりたいことやれていたら、自分が個性的かどうかなんてどうでもいいことのはずです。
 
もっとも「やりたいことをやる」――これが一番むずかしいのかもしれません。やりたいことをやらせない周囲の圧力ってのは強いですからね。特に日本は。
 
かえりみてみれば、私も、生きたいように生きるってことをしてから、描けるようになった気がします。具体的に言うと、会社をやめてひとりでやっていくという生き方をしたときからです。会社にいるときは全然描けなかったし、描こうとする気さえなかった。
 
もっとも先も言いましたように、そうやって描けた作品が他の方々にどれだけ働きかけれるものになってるかとなると、それはおのずと別問題で、正直心もとなく、きっと大したことはないのでしょう。しかし問題はそこにあるのではなく、自分の納得のいくものができているか、いや、それよりもそれに挑戦しているかどうかにあると思います。作品の社会への働きかけや、ましてやそれによる名声、収入なんて、「結果」という別次元の話で、自分ではどうすることもできないのですから、そっちのことは考えても、どうこうしようとしてエネルギー使ってもしょうがありません。外的賞賛の「結果」を手に入れることを夢見るのは本人の自由ですが。
 
とにかく自分が納得いくものを描く。これはさっきの話に還元すれば、自分がどれだけ納得のいく生き方ができているか、やりたい生き方をできているかという話でもあるかと思います。小手先や頭で、個性やスタイルを打ち出そうとしても、自分で心底納得いくかも疑問ですし、徒労に終わるということだけは確信をもって言えます。