最近漫画をよく読む。しかし最近のマンガは読まない。自分が子供の時に読んでた漫画をまた読むのだ。これは、新しいマンガは時代感性的にあわない、というより、単に私が大人になったために漫画自体を純粋に楽しむことができなくなったからだろう。漫画は子供のほうが熱中できるものである。昔のマンガを読んでると面白いというより、その熱中性やなつかしさがよみがえってくる。だからそこを足掛かりに読める。だから読むなら昔の作品となってしまうようだ。
そんなふたたび読んだ漫画に、ちばあきお作の少年野球漫画『キャプテン』がある。今回このマンガを読んでて少し気づいたことがあるので書いてみたい。
『キャプテン』は変わった漫画である。主人公が代替わりしていくのだ。墨谷(すみや)第二中学、略称:墨谷二中の野球部を舞台として、代々のキャプテンが主人公をつとめる。当初は初代の谷口タカオの物語にする予定だったようだが、人気が出たので、谷口の卒業後も続きが描かれることになった。『キャプテン』はそのまま次代キャプテンの物語として進められ、もうひとつ、高校に進学した谷口の物語が『プレイボール』というタイトルで、別の作品として派生している。
もちろん私が今回気づいたことというのは、このことではない。『キャプテン』にしても『プレイボール』にしても、大舞台を避けてるということを言いたいのだ。
初代・谷口キャプテン編では、地区大会を勝ち進むものの、決勝で全国大会優勝の常連たる名門青葉学院に敗れる。そして青葉はそのまま全国大会に出て優勝するのだが、青葉は墨谷との地区決勝で、監督がルール違反のごり押しをして勝ったのだった。このことが連盟にばれたがために再試合となり、墨谷は大特訓の末に雪辱を果たす。ここで谷口編は終わる。
2代目丸井キャプテン編では、前年の健闘が認められた墨谷は春の選抜全国大会に出場する(中学だが、大会の設定は高校野球と同じになっている)。しかし1年生近藤のまずい守備により1回戦で敗退。そのため墨谷は合宿による大特訓を敢行し、夏の大会にのぞむ。地区大会決勝では再び青葉学院と激突。延長18回の激闘の末サヨナラ勝ちをおさめるものの、選手は疲労でボロボロになってしまい、全国大会は棄権せざるをえなくなる。ここで丸井編が終わる。
3代目イガラシキャプテン編では、再び春の選抜に選ばれた墨谷は優勝を目指し、またまた大特訓を開始するのだが、あまりのハードスケジュールが父兄のあいだで問題となり、ついには負傷事故までが起こったゆえ、全国大会の辞退を余儀なくされる。ナインは夏にかけることを誓う。
・・・と、途中までのあらすじはこうなのだが、あきらかに作者は全国大会トーナメントという場面を描くことを避けている。『プレイボール』のごとくはあれだけ長いマンガでありながらついに墨谷高校のナインが甲子園の土を踏むことはなかった。
これの理由は、作者のちばあきおという人が大舞台、通常の少年漫画では檜舞台となるバトル・トーナメントを描くタイプの漫画家ではなかったからだろう。ちばあきおは兄のちばてつや氏同様、下町を舞台に、市井の人間、少年たちを描くタイプの作家であったのだ。草野球の世界を描く作家だったのである。
だから「キャプテン」なのだ。墨谷二中も、墨谷高校も監督はいない。トップはキャプテンである。これは相手チームもそうだ。上記の『キャプテン』のあらすじの範囲内でも監督が出てくるのは、倒すべき強豪・青葉学院だけである。そののちも監督が出てくるのは超強豪校だけだ。
ここまで言えば大体、ちばあきお作品の世界がどういうものか作品を読んでない方にも大体はわかってこよう。
ところが、『キャプテン』のあらすじの続きを書くと、イガラシキャプテン編の夏の大会では、地区大会優勝から、全国大会優勝までびっしり描かれているのである。少年漫画のバトルもののテンプレ展開になっているのだ。
しかしこれは作者の本当に描きたかったものだったのだろうか?
実は私は子供のとき、このイガラシ編の地区大会決勝が終わったところで読むのをやめている。春の全国大会で青葉を下した西日本の強豪・和合中と決勝を戦い、そこで勝つという先が読めたからである。それに地区大会決勝戦である江田川中戦は『キャプテン』史上最高のゲームで(あとから全編を読んでもその印象は変わらなかった)、私はここで十分満足、これ以上の試合はありえないと思ったからである。もちろん当時は小学生だったのでこのように理由を言語化できたわけではないが。
ともあれ地区大会までがちばあきおの守備範囲だったからここが頂点になったのではないか。江田川中学は『キャプテン』における墨谷二中の最初の対戦相手であり(つまり谷口編の最初の試合)、両方の試合での敵投手井口は、イガラシと草野球をやっていた幼馴染であった。
今回再読して、ふと下町の少年草野球漫画に徹していたら、ちばあきお氏もあのような早い死を迎えなくて済んだのではないかと思ったのであるが、いかがなものだろうか。