ある幻想画家の手記

絵画、芸術について思いついたことを書き記してます。画廊はこちら『第三都市幻想画家 福本晋一 ウェブサイト』 http://www7b.biglobe.ne.jp/~fukusin/ 歴史・事件論の『たまきちの「真実とは私だ」』もやってます。https://gensougaka.hateblo.jp/ メールはshufuku@kvp.biglobe.ne.jpです。

横溝正史『真珠郎』のモデルとなったモダンボーイ

 私は特に横溝正史ファンなわけではありませんが、『横溝正史読本』という横溝のインタビュー本は大好きで、今でも読み返します。その中で今回読み直して気づいたことがあるので書いておきます。

今回読んで目にとまったのは、横溝さんがやたら青年期の探偵作家仲間である中村進治郎なる人物を「あんないい男いないな」「もう貴公子みたいな顔してんのよ」と連発していることでした。そういえば横溝の作品には美少年が出てくることが多い。代表作の『獄門島』や、あまりに有名な『犬神家の一族』もそうだし、特に戦前の作品では『真珠郎』『仮面劇場』など美少年を物語の軸に据えています。最初は怪奇幻想的な雰囲気づくりのためかと思っていたのですが、どうもそれだけではなくて実在の美少年からの影響があった、つまりこの中村進治郎なる人の美貌に横溝さんが感銘を受けたため、やたら横溝作品には美少年が出てくることになったのではないかと思えたのです。そう推測したくなるほど、中村氏をいい男、美少年と横溝氏はこの本でくりかえしています。
 
この中村進治郎という人は探偵小説らしきものも書いてたものの、当時(昭和一桁ごろ)のモボの最先端を行くファッションリーダーで男性ファッションの紹介などにもたずさわり、また大変なプレイボーイであったらしい。横溝はインタビュアーの小林信彦氏に「一体何が本業の人ですか」と尋ねられて「不良でしょうね」と爆笑しながら答えています。。実際そのとおりらしく、中村氏は太宰治よろしく女優と心中を図り、女性は死亡、自らは生き残ったものの二年後の昭和9年に27歳で自殺をとげるという奔放な人生を送りました。(なお横溝の言う不良は戦前の意味で、今言う反抗的で粗暴な少年という意味ではなく、プレイボーイ、遊び人の意味です)
 
そして中村氏の死の二年後、横溝の戦前の代表作『真珠郎』が書かれることになるわけですが、おそらくこの殺人鬼美少年真珠郎のモデルが中村進治郎氏なのではないかと思うのです。実際、心中した女性が死んでいることのほか、横溝先生の語るところによれば、日本探偵小説の祖のひとりである小酒井不木氏の死もこの中村氏が遠因のひとつとのこと。その他にも中村氏と関係を持ってなくなった方がいて、横溝先生自身もまた喀血して療養生活に入ったとき、警察に釈放された中村氏が訪問に来たさいには「今度は自分の番か」と怖くなって中村氏に会わなかったとか。そういった一連の殺人的(?)因果と中村氏の美貌への思いが混ざり合って真珠郎というキャラクターが創造されたのではないか……。
だって、進治郎……真珠郎……。
 

中村進治郎氏
写真引用元:
むかしの装い
―昔のこと、装うこと―
新青年』とモダンボーイの総帥、中村進治郎さんのヴォガンヴォグ
(ご好意に感謝いたします)
 
 

芸術家に必要なものは感性より虚無

 芸術家に一番必要なものは何か?

それは、
 
欠損の感覚だと思う。『虚無』と言いかえてもいいかもしれない。
多くの人は芸術家に一番必要なものは「豊かな感性」というかもしれない。確かに『感性』は必要だ。しかし『感性』など早い話、誰でも持っているのである。岡本太郎が言ったように、『常識』でそれが覆われてしまっているだけの話で。
 
また『頭脳』なども芸術家には大して必要はない。小説家のモームも「小説を書くのにはそこそこの頭脳があれば足りる」と言っているし、最近ちらと見た本でも「頭のいい人、回転の速い人は小説家に向いてない」と書いてあったが、そうだと思った。小説家がそれでいいなら、画家などもっとそうでなくていいだろう。
 
『頭脳』が必要なのは、芸術家、作家でなく、むしろ評論家であろう。私は評論家の書いたものを読むたびに、彼らの頭脳に感服してしまう。文芸で言えば、全般的に言えば、小説家より文芸評論家のほうが、頭がいいと思う。作品を読んで感じたことを、文章というものに明晰にし、体系化するというのは頭のいい人のみができることであろう。するどく感じることもできるのだから、評論家が『感性』豊かなのも間違いがない。
 
 
 海峡Ⅱ 45.5×65.6㎝ 油彩
 
私は今、頭がいいから、評論家のほうが作家より上だなどと言っているのではない。両者は守備範囲も求められる才能も違うという話をしているのだ。評論家には作家を目指していたがなれなかった人が多い。なぜか? つまりは芸術家に一番必要なものである欠損の感覚、『虚無』がなかったからではないか? 虚無を持っていたのだとしても、その虚無の問題は芸術と関わるにあたって、鑑賞の段階、あるいは批評の段階で解決できうるものだからではなかったか? (それはそれでまったく結構な話ではないか)
 
芸術家における『虚無』というのは、政治的、経済的なものでは救えないもっと存在の根源的なものだ。作品なるものを創るということでしか救えない。いや、もしかしたら、それでさえ救えないのかもしれない。作家の発狂、自殺というのは、けだしその傍証である。
 
『虚無』は「才能」ではない。むしろ「災厄」と言い表すほうが正確だ。『虚無』という怖ろしいものがまずあって、それと戦うために作品が創られる。そのときに「才能」というものは付加的に現われてくるものである。一般に「あの人には才能がある」と言うとき、それは頭のよさだったり、他人が感心するような感性だったり、手先の器用さだったりする場合が多い。芸術家における『才能』なんて、作品ができてから、あとでだけ分かる類のものだ。つまりは「あるなし」を最初に気にかけること自体ナンセンスなものである。
 
そして、また『虚無』も、誰でも持っているものなのである。『虚無』との戦いは人間のもっとも根源的なものであり、だからこそ芸術作品は多くの人に感銘を与えることができるのだ。われわれはひとつ間違えたら、皆、『虚無』の世界に落ち込む可能性がある。『虚無』はある人には多くて、ある人には少ないというものではない。人間は皆、実は『虚無』の世界にさらされており、ただそれを見ない、感じないですむだけのバリケードを持っているかどうか、その差があるだけにすぎない。
 
よく、友達をたくさん持っていることを自慢し、友達の少ない人を嘲笑する人がいるが、これなども、誰でもが『虚無』にさらされていることの証拠であろう。友達が多いほどその人の人生はにぎやかであり、すなわち『虚無』を正視しなくて済む。逆に友達の少ない人、いない人は、恐ろしき『虚無』なるものに、つかったままのミジメな奴であると考えられているわけだ。「たくさんの友達」もいわば、バリケードなのである。芸術家というのは、いわばそういったバリケードを持たないので、バリケードを自分で作るしかない人種なのである。そこにはバリケードを作る喜びと知恵と悲劇と感動と、そして同時に虚無の恐怖がある。優れた芸術作品にどこか恐ろしいものがあるのはそのためだ。そういう意味では、芸術というのは常に人間最後の砦であり、芸術家はその最後の砦の番兵である。
 
こう考えてきたら、この記事のタイトルも訂正が必要だろう。つまり、「芸術家に一番必要なものは『虚無』」という言い方はおかしいのであって、人間の根源的『虚無』を多く目の当たりにせざるを得ない人間が、芸術家になるのに近いところにいるというのが正確である。もっとも近いところにいるから、なれるものでもないだろうけど。
               2017年10月22日

『福本晋一展』やっていただいてます in 西脇市岡之山美術館

 2017年の8月7日から8月26日まで、西脇市日本へそ公園前』駅のまん前にある西脇市岡之山美術館にて、『福本晋一展』を開催してもらっております。もちろん初の個展。とてもうれしいです。関係者の皆様ありがとうございます。

出品は油絵ばかりで25作、うち新作16作。
美術館に置いていただくチラシも自分で作りました。(ただし金がないのでモノクロ) チラシとか本の表紙とか作るのは結構やってみたいことだったので楽しかったです。
 
 ★ ★ ★
そして、8月28日無事終了させていただきました。
西脇市岡之山美術館の皆様、ならびに、ご高覧いただけました皆様には、深く御礼申し上げます。ありがとうございます。
 
しかし驚いたんですけど、制作している自分の家で見るより、今回の展示で見るほうが、絵がずっとよく見えたのでビックリしました。なんというか、絵肌が引き締まって見える感じ。さすが本当の美術館というしかありません。油絵という画材独特の魅力は、やはり絵肌(マチエール)自体の存在感にあるなと再認識しました。
それとあと、家にあるときより、絵の大きさというのがあまり意識されなかったですね。大は20号から、小はサムホールサイズまで並べていただいたんですが、20号はやっぱりでかいなあ、サムホールはやっぱり小さいなあなんて思わなかった。全部同じ大きさみたいに、というか、大きさなんて意識しませんでした。

しかしこの岡之山美術館さんの周辺たたずまいは、私の絵の感じに似ている気がします。
                     2017年8月8日

ベートーヴェンの「最高傑作」弦楽四重奏曲第14番の秘密

 ベートーヴェンの最晩年の作品、弦楽四重奏曲第14番嬰ハ短調は、ベートーヴェン自身「最高傑作」と言ったという。実際、古参のベートーヴェンファンにはこの曲を「最高傑作」と思っている人は多いようだ。その一方で、「いまだ良さが分からない」というベテランリスナーも多くいるという案外と評価が定まってない印象の作品でもある。

どちらにせよ、この曲は、一般の人には、第1楽章の憂愁と第5楽章の諧謔性が耳を引くくらいで、あまり面白い曲ではなかろうと思う。この曲は理屈屋――もう少しよく言って頭脳操作的作曲家ベートーヴェンが行き着いた理屈っぽい音楽だから。
 
たとえばこの曲にはすべての主要な音楽形式が網羅されている。全7楽章のうち、第3楽章と第6楽章はあきらかにつなぎでしかないので除外すると、
 
第1楽章 フーガ形式
第2楽章 ロンド形式
第4楽章 変奏曲形式
第5楽章 三部形式
第7楽章 ソナタ形式
 
見かたによっては音楽の形式の発展史になっている。速度指定にしてもアダージョからプレストまでくまなく採用されている。ベートーヴェンほど計算、検算する作曲家はいない。コーヒーを自分で淹れるときも、必ず60粒と数えたそうである。そういえばコーヒー豆は音符に似ている。
 
しかしさらにもうひとつ、この曲には、頭脳的、意図的に表現されているものがあると思える。それは全7楽章が続けて演奏されるところに根拠がある。
 
楽章つなぎはベートーヴェンがよくやったことだが、それは物語性を語るときに多い。つまり第五運命の第3楽章と第4楽章のつなぎは第4楽章の勝利を演出するためであり、田園の3、4、5楽章のつなぎは最終楽章の青空が戻ってきた感謝を効果的にするためだ。つながれた楽章は一体不可分――とまでは言いきれないにしても、作曲者自身は「分離するな」と考えていたことは間違いがない。ところが、晩年のベートーヴェンは、楽章つなぎ、つまり楽章同士の一体化、有機化はあまりおこなっておらず、むしろ晩年の芸術家たちにありがちな断片化、非形式化の方向に行っている。第九も最終楽章は合唱なしのものに置き換える計画があったし、弦楽四重奏曲の13番の最終楽章などは実際に置き換えられた。こんな楽章の脱着を認めることは全盛期のベートーヴェンにはなかったことである。
 
そんな晩年の作品群の中で、この14番だけが全楽章連続演奏という極端に反動的な形をとっていることは注意すべきことであろう。これは若き日の全曲統一性、物語化への意思が14番において今一度再起したということではないのか。12、15、13番(作曲順)と注文に応じた三曲のあとにこの14番は自主的に作曲されていることからも、また14番作曲中に「幸いなことに僕の想像力(つまりおそらくは全体構成力、そして自ら最高傑作といったのもこの意味であろう)はまだ若い日からすたれてはいないよ」とベートーヴェン自身語ったことからしても、14番は全曲物語化スタイルに今一度戻った作品なのだと思う。
 
実際のところ、この14番においては全楽章の有機的一体性が強すぎて、各楽章は独立性が薄い仕上がりになっている。もちろん全曲が休みなく連続しているので、ひとつの楽章だけを取り出して聴くということはしにくいのだが、それをやってみると、先に耳をひく楽章が少ないと言ったように、どの楽章も単独で聴いて面白いものになっていない。ここらは1楽章ごとが魅力的な13番(こっちも6楽章と楽章数が多い)と対照的である。
 
ただし14番に込められた全体物語がどんなものかというと分かりにくい。かつての運命交響曲や田園交響曲のそれは分かりやすく、普遍的ですらあったが、14番は神韻縹緲として謎めいている。それともその物語とは普遍的なものではなく、注文3曲を仕上げた直後に自主的に作曲されたことからしても、きわめて私的なものであったのだろうか? もし私的なものであるならば、この曲における最終楽章の悲劇的な激しさは何か?
 
むしろその表しているものが分かりやすいのは第1楽章である。冒頭にも言ったように、それは誰が聞いても憂愁である。ひたすら倦怠感と虚無感に満ちた陰鬱な同じ旋律がしつこくフーガで繰り返されるこの楽章は、私にはまさに「音のない世界」というベートーヴェンの心象風景描写に思える。ワーグナーはこの楽章を「音楽が表現するもっとも悲痛なもの」といった。私はこの楽章を聴くと重ねて、ヨーゼフ・シュティーラーという画家が描いた晩年のベートーヴェン肖像画を思い出さずにはいられない。(下図)
石井宏氏の『クラシック音楽意外史』によれば、この肖像は晩年のベートーヴェンを知る人が見たら、驚くほど感じが出ているとのことである。この第1楽章に、難聴ゆえ人付き合いができにくくなったベートーヴェンの孤独の晩年を見ることは、こじつけででなく妥当だと思う。フーガで次々と現われる主題は、懐古か、沈鬱な思索か。それはあたかも同じドイツの作家シュトルムの中篇『みずうみ』のラストにおける、老学者の脳裏に次々と現われるみずうみの幻を思い出させる。
 
ところが、その後の4つの楽章はどちらかというと、穏やか、むしろ明るく進行する。もしこの曲全体がベートーヴェンの晩年を表しているなら、その明るさ、穏やかさの理由も明白である。それは甥のカールという家族を手に入れたことだ。甥カールは、ベートーヴェンのすぐ下の弟、同名のカールの忘れ形見で、ベートーヴェンは弟カールの死後、甥カールの母親とその親権を法廷で争った。この裁判にベートーヴェンは躍起になったらしい。そしてカールの母親は未亡人に課せられた当時の法律を破っていたので、裁判は楽聖の勝ちとなり、ベートーヴェンはいわば息子を得ることができたわけである。孤独は一時的に癒された。
 
しかしならば激しく悲劇的な最終楽章が何を表しているか、われわれはもはや知っている。それはカールの自殺未遂の衝撃である。
 
近年、カールの自殺未遂については研究者の見方も変わって来ているようだ。昔は、不良少年カールが甥思いのベートーヴェンに苦労をかけ、あげくギャンブルの借金で自殺未遂までしようとしたというベートーヴェン聖人視点の見解がなされていたが、最近は、ベートーヴェンがカールに干渉しすぎ、その伯父の束縛に耐え切れなくなってしまった結果という見方が多くなっている。実際、カールは自殺未遂の理由として「伯父に苦しめられた」と述べた、その調書が残っているという。(私はこれを聞いて、ヒトラーが同じく溺愛の干渉で、姪を苦しめ、自殺に追いやった話を思い出した)
 
こう見ると、弦楽四重奏曲第14番の全体ストーリーが見えてきはしまいか。つまり晩年の孤独(第1楽章)が、カールという息子を得たことで喜びに代わり(第2楽章、第4楽章)、カールのためにいろいろ滑稽といえるほどの奔走(第5楽章)もしたものの、何か不吉な予感がしてきたかと思うと(第6楽章)、カールは死のうとし、ベートーヴェンは衝撃(第7楽章)を受けたと。 あの最終楽章の出だし、いかにも衝撃の知らせを聴いた者の驚愕、動転しての駆け出しぶりといった感じではないか! 第2主題は最悪の事態には至らなかったという安堵で胸をなでおろすかのようである。
 
孤独な人間は身近にいる自分より弱い立場の人間を支配しようとする。つまりベートーヴェンの孤独がもたらした必然の悲劇。弦楽四重奏曲第14番は、ベートーヴェンの晩年そのものを象徴する事件を表しているのだ。
 
カールの自殺未遂は1826年7月。14番が完成したのは5月とも言われているが、出版社に渡したのは10月なので、どっちが先かは不明だが、ベートーヴェン自身が、その運命を自らの知らぬところで予知していなかったとも限らない。彼は自らの孤独が何か悲劇的事件を起こすことを芸術家の勘で感じていたのではないか? あるベートーヴェンファンの方のサイトでは、この最終楽章は晩年のベートーヴェンが自らの老年の運命に立ち向かっていく姿だと書いてあったが、それとこれも矛盾しない。なんとなれば、カールの自殺未遂という衝撃こそ、晩年のベートーヴェンがもっとも正面から対峙しなくてはならなかった運命なのだから。少なくとも、最終楽章が、沈鬱な第一楽章の帰結であることはベートーヴェンの音楽構成手法からして間違いないと思われる。
 
友人の説得もあって、ついにベートーヴェンはカールの親権を放棄、カールは軍隊に入り、伯父との同居生活は終わりを告げる。しかし軍隊に入るのが決まるまでは、伯父と一緒に、叔父ヨハン(ベートーヴェンの末弟)のところに逗留しているので、ケンカ別れになったのでなく、確執も残らなかったようだ。ベートーヴェン自身もこの結末に、悲しいながらも納得、受け入れたであろうことは明らかである。最終楽章の終わりの音が長調になって悲劇的なまま結ばれないのもそのためであろう。
 
弦楽四重奏曲第14番、それはベートーヴェンの父親になることの失敗を語った曲だった。だから、それは、新たなカールの父ともいうべき、カールの上官シュトゥッターハイム男爵に捧げられたのである。(最初は別の人に献呈される予定だった)
 
もっとも、私はこの指摘をもってこの曲を理解、把握しきったなどとは考えてはいない。そもそもこの指摘が正しいかも証明はできないし、それ以前に芸術作品は暗喩に還元されるものではない。ただ、この曲をその内容の必然的悲劇ともかけて、ベートーヴェンという作家の到達点、必然的到達点という意見には与しても(ある意味、ムツカシイ音楽であるクラシック音楽の到達点でもあるといえるが)、これがベートーヴェンの最高傑作という意見には、音の喜びが少ないという意味で、賛成はしかねるということだけは最後に言っておきたい。タイトルの最高傑作という言葉に「」をつけたのもそのためである。
 

フランク・ロイド・ライトのジョンソン・ワックス社ビルと仏教建築

 フランク・ロイド・ライトの建築が日本建築の形態の影響を受けていることは誰もが知るところである。ロビー邸は平等院鳳凰堂(下図)だし、ユニティ教会や、ジョンソン・ワックス社の全体プランは、日光東照宮の本殿と拝殿を『呂』の字型につなぐプランを踏襲している。

 
そして上図のジョンソン・ワックス社ビルの全体写真を見たら、誰もがもうひとつの日本建築の影響を指摘せずにはいられないだろう。つまり四角い塔が回廊に囲われているという構成。それは明らかに塔を擁した仏教建築の伽藍配置だ。
 
しかしジョンソン・ワックス社ビルにおける日本建築の影響はそれだけではない。この建物にはいくつかの特徴的ディテールがあり、それもまたそうなのである。
 
ひとつはガラスチューブによる採光窓だ(上図)。これは周囲の工場街を見せないで、外光だけを採り入れるという考えの元に採用されたものだが、管状の素材を水平に連ねて採光と視線を調節するということであれば、これが簾の影響を受けていることは明白であろう。(簾自体は日本建築だけのものではないが)ただ単に採光と視線の調節なら曇りガラスでいい。
 
かようにこの建物には日本建築の影響があちこちに見て取れるのである。しかし、私は以前から、このジョンソンワックス社ビルにおいてどこからその形を持ってきたか分からない部分があった。それは上の写真で、塔と向かい合ったところに配されている、45度にふった壁を持つ3階部分、ライト自身が「鼻孔」と呼んだ部分だ。真上から見たほうがより分かりやすいと思うので、下にそれを示す。
この部分は経営陣のオフィスがある箇所になっているのだが、この特異な形状はいったいどこから出てきたのだろうか? この部分の下部、つまり1、2階は、この建物をもっとも特徴づけているあの有名なキノコ柱の大事務室、つまり大空間なのであり、このような形状はしていないのである。(下図)
この特異な3階部分は2階の屋根の上にとってつけたように置かれているのだ。これは本当に「鼻孔」だったのだろうか? なるほど、鼻の孔にあたる部分は換気塔なのだと思われるが、日本建築、仏教建築というモチーフを重ねてきて、ここでなぜ急に「鼻孔」なのかと思えてむずかゆくなるのである。
 
それが最近ハタと芋づる式に気づいたのだ。
 
きっかけは、釈迦の本であった。そのとき私は頭が釈迦漬けになっていて、すべてが釈迦に関係あるように見えてしまっていた。そのとき、上図のジョンソン・ワックス社ビルの最も有名な、キノコ状の柱が並ぶ大事務室の写真をふと見た。丸い天井を頂いた柱という最もこの建物を特徴づけているこのディテールは、ライト自身が「マッシュルーム」と呼んでいたこともあって「キノコ状」と表現されることが多いのだが、これの発想の原型は蓮の葉ではないのか?(下図
言うまでもなく蓮は仏教で大切にされている植物だ。今は泥沼でも、いずれその泥沼から茎が伸び、葉を開き、花も咲くという意味があるらしい。そして仏教において、蓮の上にはいつも何か乗っかっていないか? 
 
すなわち座禅を組んだ仏陀である。
                       

レオナルド・ダ・ヴィンチ 本当の自画像

 これはあまりに有名なレオナルド・ダ・ヴィンチの顔ですが、実はこのレオナルドが描いたオッサン、いやデッサンが本当にレオナルドの自画像なのか証拠は何もない。「わしの顔」なんてどこにも書いていないのだ。いかにも偉人の肖像にふさわしいということで自画像と『されている』だけである。
 
もちろん自画像の可能性もないことはない。しかしレオナルドは67歳で死に、65歳くらいのときにはもう手がまともに動かなくなっていたらしいから、このデッサンは遅く見積もっても60歳前半のもののはずである。60前半にしては老けすぎであろう。時代、場所を考慮してもである。このデッサンは一説によれば、老け方からして、公証人であったレオナルドの父親ではないかという説もある。
 
レオナルドは本当はどんな顔だったのだろうか? 有名なのはレオナルドの師ヴェロッキオがレオナルドをモデルにしたというダビデ像である。(下図)
当時の絵画、彫刻は工房をかまえての制作だったので、弟子がモデルになるのは普通のことであった。まして若き日のレオナルドが美しかったというのは証言がたくさんあるのでまず事実とみて間違いなく、それなら当然モデルになっていたと思われる。しかし、根拠はそれだけで、このブロンズ像のモデルがレオナルドだという証拠もない。
 
とはいうものの、レオナルド26歳のとき、初の大作となった(未完に終わったが)『三王礼拝』で、右端に立っている男がレオナルドの自画像だといわれており、それとヴェロッキオのダビデはなんとなく似ているのである。(下図)
 
 
これを自画像とする根拠は、レオナルドの兄弟子のボッティチェッリが、同じく『三王礼拝』を描いたときに、右端に自画像を描いているからであるのだが、(当時そういう習慣があったようである)、確かにこの青年は、ヴェロッキオのダビデ像と瓜二つとは言えないにしても、似ているとはいえる。
 
ちなみにこの青年は、ディ・クレディという画家の『三王礼拝』からしても、その対象の位置(つまり左端)に立っている老人がヨセフであるのに対し、聖ヨハネということらしいのだが、聖ヨハネと言えば、レオナルドが50歳を過ぎて最後に描いた油絵もそれである。そしてこの最後の油絵『聖ヨハネ』こそ、ヴェロッキオのダビデ像にそっくりなのだ。(下図)
その巻き毛、やや面長で、頬骨が出ていて、口の端だけをあげたような笑み、文句なしに似ていると言っていいだろう。
 
このヨハネのモデルが誰かは分からない。弟子のサライである可能性は高い。サライもまた美青年だったといわれるからだ。
 
サライは盗み癖があり、絵の才能も大したことはなかったが、美貌だったゆえ、レオナルドが弟子にしたと言われている。
 
しかしそれだけだろうか? 手癖が悪く才能もない者をただ美貌だからといって弟子にし、晩年まで連れ添うなんてことがありうるだろうか。
 
それだけではなくて、サライはレオナルドに似ていたのではなかろうか。
 
レオナルドは庶子で、父親の本妻に男の子が生まれなかったため、母親から引き離されて育てられた。だからレオナルドは母の愛に飢えており、母のぬくもりを求める心が、後年彼の描いた聖母マリアや、モナリザの母性に投影されたといわれる。サライが自分に似ていたために、自分が母親のようになって面倒を見たくなった可能性もないとは言えないのだ。希薄だった母子関係の再現。もしそうであるなら、このヨハネは若き日のレオナルドの容姿が投影されている可能性もあるわけである。
 
この『聖ヨハネ』像は、注文者もわかっておらず、レオナルドが自分のためだけに描き、また他者に見せるつもりもなかったと考えられている。ともあれ依頼主がいたとしても、レオナルドが「モナリザ」と「聖アンナと聖母子」とともにこの「聖ヨハネ像」を死ぬまで離さず所持していたのは確かな話である。この3点の油絵には、レオナルドにとって手放すことができない思い出以上のものが詰まっていたのではあるまいか。
It is said that Verrocchio modeled his bronze statue of David after young Leonardo da Vinci. The face resembles Leonardo's St. John the baptist. The painting might be Leonardo's self-potrait.
 

芥川龍之介『歯車』におけるレエン・コオトの正体

 ちょっと芥川龍之介の遺作小説『歯車』を読んでて気がついたことがあるので書き記しておきます。多分、今までどの文学者も指摘してないことだと思うのですが、どうか。

この小説は好きで何度も読んでいる。芥川を自殺に追い込んだいろいろな妄想が描かれている傷ましい短編なのだが、私は、不謹慎なことに、なかば怪奇小説として読んでいる。しかし不謹慎とばかりは言えないかもしれない。なぜなら芥川自身、基本的に事実を書いたのだろうが、読み物としての効果を出すために脚色、再構成しているところがあるからだ。たとえば、第一章のタイトルにもなっている『レエン・コオト』(レイン・コート)の扱いである。
 
主人公の『僕』は理髪店の店主から、『ある屋敷で雨の日に出るレエン・コオトを着た幽霊』の話を聞く。最初は気にも留めなかったが、その話を聞いたのち、『僕』の目の前にレエン・コオトを着た男が姿を現すようになり、『僕』は不気味になってくる。そしてホテルで仕事をしていると、義兄がレエン・コオトを着て列車自殺したことを知る。
 
この義兄がレエン・コオトを着て死んだことを知る一行が、私にとって(もちろん作中の『僕』にとっても)、この小説の一番ぞっとするところなのだが、義兄が自殺したこと自体は、何がそんなに恐ろしいことなのかが、よく分からなかった。この後もこの小説にはやたらレエン・コオトが出てきて、『僕』をおびやかすのである。
 
芥川の義兄の轢死自殺は実際にあったことであり、そのために芥川は残された実姉家族の面倒を見ることに奔走することとなった。この労苦は、芥川の自殺を促進させた要因と見なされている。義兄は持ち家を相場の二倍にあたる金額の火災保険に入って放火したということで偽証罪に問われていた。そのために自殺に追い込まれたらしい。義兄は強引な現実主義的策士タイプで、芥川とは仲が悪かったという。
 
義兄の死が、すでに強度の神経衰弱に陥っていた芥川の精神的負担になったということは分かるにしても、なぜ、レエン・コオトを作中の『僕』はそんなに怖ろしく感じるのか? 仲の悪かった義兄が自分を恨み、道連れにしようと現われていると思えたからか? 
 
実際には彼の義兄はレエン・コオトを着て死んだのではない。義兄の自殺は当時の新聞にも出たが、それによると、持ち物の鞄の中にあったのはオーバーコートだそうである。つまり義兄が『レエン・コオトを着て』死んだというのは芥川の創作なのだ。
 
ならば、余計に思う。なぜオーバーコートでなく、レエン・コオトなのか? なぜ義兄はそれを『着て』死ななければならなかったのか? つまりは、なぜレエン・コオトが引き裂かれなくてはならなかったのか?
 
もし芥川が意図的に『レエン・コオト』に何かの意味を託したのなら、そのヒントは当然作中に織り込まれていると考えるべきであろう。実際、「僕」がレエンコオトの幽霊の話を聞いてから、義兄の自殺を知るまでに描かれた出来事には、実に「その英語の意味は何?」というエピソードが多いのだ。
 
「ラヴ・シインって何?」
「モダアン……何と云うやつかね」
「一体、何が all right なのであろう?」
 
言わずもがな、鉄道と事業失敗の話が多いのは、義兄の鉄道自殺の伏線であるが、他にもうひとつあるのが、想像上の動物の異名の話だ。書き手の『僕』はある漢学者にこう語る。鳳凰はフェニックスのことであり、麒麟は一角獣である。そして宴会場で『僕』のステーキにうごめいていた蛆虫も英語でwormであり、それもまた聖書の中の想像上の動物。
 
想像上の動物といえば、芥川は『河童』という小説を書いている。主人公が河童の国に行く話で、やはり暗い厭世観に満ちた晩年の作品である。この『歯車』にも彼が『河童』を書いているところが出てくる。芥川は、自分で描いた河童の絵も残しており、また泳ぎが得意で、容貌も河童に似ているため、実際そう呼ばれたこともあるらしく、自分を河童と同一視していた。彼の死んだ日が河童忌と呼ばれているのはそういう事情を汲んでのことである。
 
なぜレエン・コオトが引き裂かれなければならなかったかであった。
 
レエン・コオトを日本語で言うと何になるか。もはやこれ以上語る必要はないだろう。
 
 
 
 
私は芥川の晩年の私小説が好きだが、それはどうもそれらがシュールレアリズムと同系統の作品であるかららしい。同系統というのは質的に似ているというだけでなく、どうも発生血統的にも同根らしいのである。
 
ブルトンがパリでシュールレアリズム宣言を発表したのが1924年(もともとは文学中心の運動だった。ちなみに『歯車』の主人公が最初に会う旧友もパリから戻ってきたばかりであった)、芥川の晩年の私小説は、1925年末から死の1927年までに書かれている。またシュールレアリズムに影響を与えた精神分析学も、大正末期に多く邦訳が出ているのである。芥川がそれらを読んでいた可能性は大いにあると思う。
 
芥川の晩年の私小説でもっともシュールレアリズム的、かつフロイト的なのは、『蜃気楼』であろう。この作品に対し三島由紀夫は「広大な平原を舞台に描かれたダリの絵を思い出す」と言っているが、思い出すどころか、シュールレアリズム絵画の影響下に書かれたものかもしれないのだ。
 
『蜃気楼』が書かれたのは1927年。ダリがフロイトの影響を受けた作品を本格的に展開しだしたのは1929年だから、芥川がダリの影響を受けたということはありえないが、デ・キリコ、エルンスト、タンギーなどはすでに、あのだだっぴろい場所、広大な平原とも海底とも知れぬ世界に夢幻的なイメージを展開していた。当時の芥川の家には、カンディンスキーの画集や、音楽ではドビッシューなどのレコードもあったというから、キリコやエルンストの絵の複製を彼が持っていたとしても不思議ではない。特に『蜃気楼』における、広大な砂浜の点景にふたりの人物が出現するところ、あるいは広大な平原が何か幻覚を生み出すような魔力を宿しているかのようなところなど、もろにキリコ的、かつダリ的である。そういう意味では、芥川の晩年の作品とダリのシュールレアリズム作品は、初期シュールレアリズムから生まれた兄弟作品かもしれないのである。
 
しかし何より、晩年の芥川の私小説において、シュールレアリスティック、ダリ的なのは、夢の象徴性、およびオブジェの象徴性が散りばめられているところであろう。『歯車』における「レエン・コオト」の象徴性について上述したように、芥川の晩年の私小説には、非常に彼の見た夢が出てくる。『蜃気楼』においても、彼が友人に夜の砂浜で自分の見た夢の話をすると、マッチをつけて夜の波打ち際を見ていた友人は、「つまりマッチをつけるといろんなものが見えてくるようなものだな」と答えている。これは明らかに精神分析学の無意識の概念である。(もっとも夢占いというのは日本にも昔からあり、夢に何かの真実があるというのは太古からあった捉え方であろうが)
 
これら一連の芥川のシュールレアリズム的作品の嚆矢となったのは、『年末の一日』で、この掌編もまた冒頭、夢から始まっている。筋はといえば、夏目漱石のファンである友人に漱石の墓を案内するも、墓が見つからず(芥川は漱石の弟子であった)いらだつというだけの話であるが、生と死の道を探して、なかなか見つからないという芥川の晩年の苦悩が表れている。しかし最後に、ヘソの緒処理会社の荷車を「自分自身と闘うように」押して手伝うところに、彼の最後の作品創作への意志、生と死の運命に挑む最後の気概も同時にあらわれている。
 
私は今、芥川「最後の」戦いと言ったが、タイトルの『年末』がすでに、傷ましくも彼の人生の『末期』を予告しているようにも思われ、結果論とも言えないところがある。事実、芥川がこれを書いたのは死の一年半前、1925年の年末だが、その2ヶ月前に、彼は3年も続けたアフォリズムエッセイ『侏儒の言葉』の雑誌連載をやめている。この『侏儒の言葉』の連載切り上げもまた、闘う意志の表明だったのだろう。なんとなれば、『侏儒の言葉』は、後ろ向きの皮肉ばかりを並べたエッセイであるからだ。
 
侏儒の言葉』を連載していた3年間は芥川は大した小説を書いていない。芥川の作品は最初から皮肉っぽく冷笑的で、そういった小説は行き詰ったものの彼は皮肉と冷笑をやめられず、それで今度は『侏儒の言葉』をつづってきたのではないか。当然ながらそれも行き詰った。しかし新たな道をこの『年末の一日』によって切り開いたのである。上述の『蜃気楼』などは、かなり明るい肯定の方向に向いている作品であり、彼がこの作品に自信(というか喜び)を持っていたのは当然であったという気がする。この作品には、自分をおびやかす錯覚、幻覚なども『蜃気楼』に過ぎないという楽観性が漂っている。ラストなどは夫人をはじめ家族、家庭が彼に安らぎを与えている描写で終わっているのも珍しい。(夫妻の会話のバタとか、ソウセエジが何を意味しているかは言うまでもない)
 
しかし、皮肉と冷笑の気質は芥川に最後までつきまとって離れず、最後に戦いを挑んだシュールレアリスティックな新手法の作品では、逆に何者かに冷笑されている苦しみとなった遺稿小説『歯車』において、「僕はこの先を書き続ける力を持っていない」と結ばれて終結した。『歯車』を書き終わってから死ぬまでの3ヶ月のあいだには『或阿呆の一生』なども書かれているが、それは断片の寄せ集めに過ぎなかった。もはや小説の体、つまり「もうひとつの現実」にまで達することはなかったのである。
                      
                       2016年3月18日