ある幻想画家の手記

絵画、芸術について思いついたことを書き記してます。画廊はこちら『第三都市幻想画家 福本晋一 ウェブサイト』 http://www7b.biglobe.ne.jp/~fukusin/ 歴史・事件論の『たまきちの「真実とは私だ」』もやってます。https://gensougaka.hateblo.jp/ メールはshufuku@kvp.biglobe.ne.jpです。

レンブラント『ユダヤの花嫁』を模写してみました

レンブラントの最高傑作という声もある『ユダヤの花嫁』と『読書するティトゥス』を模写しました。

欧米で古典絵画の美術館を巡っていて、同じような絵ばかりにあくびが出始めたとき、突然ハッとさせられる絵に出会う、と、それはたいていレンブラントの絵であると、これは私の経験ですが、同じことを書いている人がどこかにおられました。レンブラントの絵の存在感はすごい。
 
レンブラントは原画と複製の違いが大きい画家です。もちろん原画のほうがずっといい。レンブラントに比べたら同国の後輩フェルメールは、原画と複製の差があまりない。
 
レンブラントの良さが複製で減殺されてしまうのは、ハイライトの絵具の盛り上げとグラッシ(油で薄めた絵具で透明状に描く方法)との対比・相乗効果が写真では出にくいからだと思います。これまた同じオランダのファン・ゴッホの絵も絵具が盛り上がってますが、ゴッホは「盛り上げ」一辺倒なので、複製でもそれが分かりやすい。
 
ユダヤの花嫁』 模写 P20号
 
上の『ユダヤの花嫁』は男性の右袖が素晴らしく絵具で盛り上げられていることで有名で、レンブラントの絵具盛り上げの例としてもっとも引用される絵でもありますが、私が、どう描こうかともっとも悩んだのは、むしろ男の服の盛り上がっていない部分でした。具体的に言えば胴体の部分。なかなか判別できないので、もう模写すること自体やめとこうかなって思ったほどです。しかし高画質画像を見ていたら、袖ほどではないですが、白の絵具でまんべんなく盛り上げておいてその上から茶色のグラッシをかけ、それから筆の柄でひっかくということを何度か繰り返してるなと分析し、それでやってみました。このスクラッチ(ひっかき)という技法は、私もオリジナル絵画でよく使いますが(絵具乗せていくより、ひっかくほうが楽ですから)レンブラントもよく使いますねえ。この絵においては、あと男性の髪の毛と、女性の胸の透明な衣服部分で使われてるようです。
 
 
レンブラントは、昔は日本でも今よりは人気が高かったようで、レンブラントを目標とした日本人洋画家は非常に多い印象を受けます。それが現在日本での人気において、フェルメールとファン・ゴッホという同国の後輩に抜かれちゃったのは、上記の「複製では良さが出にくいこと」に起因している気がします。
 
原画をたくさん持っている欧米ではレンブラントの人気、評価はすごい。「レンブラントは生涯600点の油絵を描いた。そのうちの1,000点が現在アメリカにある」なんてジョークがまかり通ってるほど贋作も多いのだとか。もっとも現在、レンブラントの直筆油絵の数は、弟子との共作は除外することによって250点くらいに修正されているようですが。
 
一方でレンブラントは聖書を題材としたものが多いから、フェルメールより日本で受けないのだという意見もあるようです。しかし、私は、レンブラントの真骨頂、本質は、肖像画、わけても集団肖像画にあったと考えます。実際、当時のオランダは美術史上はじめて、歴史画家、風俗画家、風景画家、静物画家など画家の専門化が確立した時代であり、その中でレンブラントがその名声、及び富を得たのも何より肖像画家としてでした。
 
読書するティトゥス(模写)F10号
 
レンブラントの真骨頂が個人肖像画、とりわけ集団肖像画にあったというのは、『テュルプ博士の解剖講義』『夜警(※これは集団肖像画なのです)』『織物組合の幹部たち』『ユダヤの花嫁』『ある家族の肖像』などを見れば、何も説明要らないでしょう。彼の個人肖像画も十分劇的ですが、複数人の肖像を描かせたときの彼の霊感というか構成力、演出力は飛びぬけています。下図の『織物組合の幹部たち』の卓上面より下から見上げるという構図とその静かなる動性!
 
『織物組合の幹部たち』(原画)
 
反面、彼の聖書画のほうは劇的とはいえるにせよ、どこか物足りなさを私は感じます。なんか抽象的なドラマチックさがあるだけで、人物は記号的、生きている人間の実在感、重量感がない。
 
レンブラントは、目の前に実体がなければ描けなかったタイプの画家だったのではないでしょうか。想像だけに頼ってては持ち味が発揮できないタイプの画家であった。ここら、上にあげたフェルメール、ファン・ゴッホにも通じるものがある気がします。一見幻想画家と呼びたくなりそうなエッシャーなんかも、ひとつひとつのオブジェ自体は想像じゃ描けなかったらしい。
 
レンブラントの真骨頂は肖像画、生きた人間の肖像、わけても集団肖像画にあった――レンブラントがあれほどの数の自画像を描いたのも、彼の本質が肖像画にあったからだと思います。それはレンブラントにとって、モデルと真正面から向き合い、その本質を見抜こうとする鍛錬の場、自己の真骨頂を発揮できた場であったのだという気がします。