ある幻想画家の手記

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ベートーヴェンの「最高傑作」弦楽四重奏曲第14番の秘密

 ベートーヴェンの最晩年の作品、弦楽四重奏曲第14番嬰ハ短調は、ベートーヴェン自身「最高傑作」と言ったという。実際、古参のベートーヴェンファンにはこの曲を「最高傑作」と思っている人は多いようだ。その一方で、「いまだ良さが分からない」というベテランリスナーも多くいるという案外と評価が定まってない印象の作品でもある。

どちらにせよ、この曲は、一般の人には、第1楽章の憂愁と第5楽章の諧謔性が耳を引くくらいで、あまり面白い曲ではなかろうと思う。この曲は理屈屋――もう少しよく言って頭脳操作的作曲家ベートーヴェンが行き着いた理屈っぽい音楽だから。
 
たとえばこの曲にはすべての主要な音楽形式が網羅されている。全7楽章のうち、第3楽章と第6楽章はあきらかにつなぎでしかないので除外すると、
 
第1楽章 フーガ形式
第2楽章 ロンド形式
第4楽章 変奏曲形式
第5楽章 三部形式
第7楽章 ソナタ形式
 
見かたによっては音楽の形式の発展史になっている。速度指定にしてもアダージョからプレストまでくまなく採用されている。ベートーヴェンほど計算、検算する作曲家はいない。コーヒーを自分で淹れるときも、必ず60粒と数えたそうである。そういえばコーヒー豆は音符に似ている。
 
しかしさらにもうひとつ、この曲には、頭脳的、意図的に表現されているものがあると思える。それは全7楽章が続けて演奏されるところに根拠がある。
 
楽章つなぎはベートーヴェンがよくやったことだが、それは物語性を語るときに多い。つまり第五運命の第3楽章と第4楽章のつなぎは第4楽章の勝利を演出するためであり、田園の3、4、5楽章のつなぎは最終楽章の青空が戻ってきた感謝を効果的にするためだ。つながれた楽章は一体不可分――とまでは言いきれないにしても、作曲者自身は「分離するな」と考えていたことは間違いがない。ところが、晩年のベートーヴェンは、楽章つなぎ、つまり楽章同士の一体化、有機化はあまりおこなっておらず、むしろ晩年の芸術家たちにありがちな断片化、非形式化の方向に行っている。第九も最終楽章は合唱なしのものに置き換える計画があったし、弦楽四重奏曲の13番の最終楽章などは実際に置き換えられた。こんな楽章の脱着を認めることは全盛期のベートーヴェンにはなかったことである。
 
そんな晩年の作品群の中で、この14番だけが全楽章連続演奏という極端に反動的な形をとっていることは注意すべきことであろう。これは若き日の全曲統一性、物語化への意思が14番において今一度再起したということではないのか。12、15、13番(作曲順)と注文に応じた三曲のあとにこの14番は自主的に作曲されていることからも、また14番作曲中に「幸いなことに僕の想像力(つまりおそらくは全体構成力、そして自ら最高傑作といったのもこの意味であろう)はまだ若い日からすたれてはいないよ」とベートーヴェン自身語ったことからしても、14番は全曲物語化スタイルに今一度戻った作品なのだと思う。
 
実際のところ、この14番においては全楽章の有機的一体性が強すぎて、各楽章は独立性が薄い仕上がりになっている。もちろん全曲が休みなく連続しているので、ひとつの楽章だけを取り出して聴くということはしにくいのだが、それをやってみると、先に耳をひく楽章が少ないと言ったように、どの楽章も単独で聴いて面白いものになっていない。ここらは1楽章ごとが魅力的な13番(こっちも6楽章と楽章数が多い)と対照的である。
 
ただし14番に込められた全体物語がどんなものかというと分かりにくい。かつての運命交響曲や田園交響曲のそれは分かりやすく、普遍的ですらあったが、14番は神韻縹緲として謎めいている。それともその物語とは普遍的なものではなく、注文3曲を仕上げた直後に自主的に作曲されたことからしても、きわめて私的なものであったのだろうか? もし私的なものであるならば、この曲における最終楽章の悲劇的な激しさは何か?
 
むしろその表しているものが分かりやすいのは第1楽章である。冒頭にも言ったように、それは誰が聞いても憂愁である。ひたすら倦怠感と虚無感に満ちた陰鬱な同じ旋律がしつこくフーガで繰り返されるこの楽章は、私にはまさに「音のない世界」というベートーヴェンの心象風景描写に思える。ワーグナーはこの楽章を「音楽が表現するもっとも悲痛なもの」といった。私はこの楽章を聴くと重ねて、ヨーゼフ・シュティーラーという画家が描いた晩年のベートーヴェン肖像画を思い出さずにはいられない。(下図)
石井宏氏の『クラシック音楽意外史』によれば、この肖像は晩年のベートーヴェンを知る人が見たら、驚くほど感じが出ているとのことである。この第1楽章に、難聴ゆえ人付き合いができにくくなったベートーヴェンの孤独の晩年を見ることは、こじつけででなく妥当だと思う。フーガで次々と現われる主題は、懐古か、沈鬱な思索か。それはあたかも同じドイツの作家シュトルムの中篇『みずうみ』のラストにおける、老学者の脳裏に次々と現われるみずうみの幻を思い出させる。
 
ところが、その後の4つの楽章はどちらかというと、穏やか、むしろ明るく進行する。もしこの曲全体がベートーヴェンの晩年を表しているなら、その明るさ、穏やかさの理由も明白である。それは甥のカールという家族を手に入れたことだ。甥カールは、ベートーヴェンのすぐ下の弟、同名のカールの忘れ形見で、ベートーヴェンは弟カールの死後、甥カールの母親とその親権を法廷で争った。この裁判にベートーヴェンは躍起になったらしい。そしてカールの母親は未亡人に課せられた当時の法律を破っていたので、裁判は楽聖の勝ちとなり、ベートーヴェンはいわば息子を得ることができたわけである。孤独は一時的に癒された。
 
しかしならば激しく悲劇的な最終楽章が何を表しているか、われわれはもはや知っている。それはカールの自殺未遂の衝撃である。
 
近年、カールの自殺未遂については研究者の見方も変わって来ているようだ。昔は、不良少年カールが甥思いのベートーヴェンに苦労をかけ、あげくギャンブルの借金で自殺未遂までしようとしたというベートーヴェン聖人視点の見解がなされていたが、最近は、ベートーヴェンがカールに干渉しすぎ、その伯父の束縛に耐え切れなくなってしまった結果という見方が多くなっている。実際、カールは自殺未遂の理由として「伯父に苦しめられた」と述べた、その調書が残っているという。(私はこれを聞いて、ヒトラーが同じく溺愛の干渉で、姪を苦しめ、自殺に追いやった話を思い出した)
 
こう見ると、弦楽四重奏曲第14番の全体ストーリーが見えてきはしまいか。つまり晩年の孤独(第1楽章)が、カールという息子を得たことで喜びに代わり(第2楽章、第4楽章)、カールのためにいろいろ滑稽といえるほどの奔走(第5楽章)もしたものの、何か不吉な予感がしてきたかと思うと(第6楽章)、カールは死のうとし、ベートーヴェンは衝撃(第7楽章)を受けたと。 あの最終楽章の出だし、いかにも衝撃の知らせを聴いた者の驚愕、動転しての駆け出しぶりといった感じではないか! 第2主題は最悪の事態には至らなかったという安堵で胸をなでおろすかのようである。
 
孤独な人間は身近にいる自分より弱い立場の人間を支配しようとする。つまりベートーヴェンの孤独がもたらした必然の悲劇。弦楽四重奏曲第14番は、ベートーヴェンの晩年そのものを象徴する事件を表しているのだ。
 
カールの自殺未遂は1826年7月。14番が完成したのは5月とも言われているが、出版社に渡したのは10月なので、どっちが先かは不明だが、ベートーヴェン自身が、その運命を自らの知らぬところで予知していなかったとも限らない。彼は自らの孤独が何か悲劇的事件を起こすことを芸術家の勘で感じていたのではないか? あるベートーヴェンファンの方のサイトでは、この最終楽章は晩年のベートーヴェンが自らの老年の運命に立ち向かっていく姿だと書いてあったが、それとこれも矛盾しない。なんとなれば、カールの自殺未遂という衝撃こそ、晩年のベートーヴェンがもっとも正面から対峙しなくてはならなかった運命なのだから。少なくとも、最終楽章が、沈鬱な第一楽章の帰結であることはベートーヴェンの音楽構成手法からして間違いないと思われる。
 
友人の説得もあって、ついにベートーヴェンはカールの親権を放棄、カールは軍隊に入り、伯父との同居生活は終わりを告げる。しかし軍隊に入るのが決まるまでは、伯父と一緒に、叔父ヨハン(ベートーヴェンの末弟)のところに逗留しているので、ケンカ別れになったのでなく、確執も残らなかったようだ。ベートーヴェン自身もこの結末に、悲しいながらも納得、受け入れたであろうことは明らかである。最終楽章の終わりの音が長調になって悲劇的なまま結ばれないのもそのためであろう。
 
弦楽四重奏曲第14番、それはベートーヴェンの父親になることの失敗を語った曲だった。だから、それは、新たなカールの父ともいうべき、カールの上官シュトゥッターハイム男爵に捧げられたのである。(最初は別の人に献呈される予定だった)
 
もっとも、私はこの指摘をもってこの曲を理解、把握しきったなどとは考えてはいない。そもそもこの指摘が正しいかも証明はできないし、それ以前に芸術作品は暗喩に還元されるものではない。ただ、この曲をその内容の必然的悲劇ともかけて、ベートーヴェンという作家の到達点、必然的到達点という意見には与しても(ある意味、ムツカシイ音楽であるクラシック音楽の到達点でもあるといえるが)、これがベートーヴェンの最高傑作という意見には、音の喜びが少ないという意味で、賛成はしかねるということだけは最後に言っておきたい。タイトルの最高傑作という言葉に「」をつけたのもそのためである。