ある幻想画家の手記

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芥川龍之介『歯車』におけるレエン・コオトの正体

 ちょっと芥川龍之介の遺作小説『歯車』を読んでて気がついたことがあるので書き記しておきます。多分、今までどの文学者も指摘してないことだと思うのですが、どうか。

この小説は好きで何度も読んでいる。芥川を自殺に追い込んだいろいろな妄想が描かれている傷ましい短編なのだが、私は、不謹慎なことに、なかば怪奇小説として読んでいる。しかし不謹慎とばかりは言えないかもしれない。なぜなら芥川自身、基本的に事実を書いたのだろうが、読み物としての効果を出すために脚色、再構成しているところがあるからだ。たとえば、第一章のタイトルにもなっている『レエン・コオト』(レイン・コート)の扱いである。
 
主人公の『僕』は理髪店の店主から、『ある屋敷で雨の日に出るレエン・コオトを着た幽霊』の話を聞く。最初は気にも留めなかったが、その話を聞いたのち、『僕』の目の前にレエン・コオトを着た男が姿を現すようになり、『僕』は不気味になってくる。そしてホテルで仕事をしていると、義兄がレエン・コオトを着て列車自殺したことを知る。
 
この義兄がレエン・コオトを着て死んだことを知る一行が、私にとって(もちろん作中の『僕』にとっても)、この小説の一番ぞっとするところなのだが、義兄が自殺したこと自体は、何がそんなに恐ろしいことなのかが、よく分からなかった。この後もこの小説にはやたらレエン・コオトが出てきて、『僕』をおびやかすのである。
 
芥川の義兄の轢死自殺は実際にあったことであり、そのために芥川は残された実姉家族の面倒を見ることに奔走することとなった。この労苦は、芥川の自殺を促進させた要因と見なされている。義兄は持ち家を相場の二倍にあたる金額の火災保険に入って放火したということで偽証罪に問われていた。そのために自殺に追い込まれたらしい。義兄は強引な現実主義的策士タイプで、芥川とは仲が悪かったという。
 
義兄の死が、すでに強度の神経衰弱に陥っていた芥川の精神的負担になったということは分かるにしても、なぜ、レエン・コオトを作中の『僕』はそんなに怖ろしく感じるのか? 仲の悪かった義兄が自分を恨み、道連れにしようと現われていると思えたからか? 
 
実際には彼の義兄はレエン・コオトを着て死んだのではない。義兄の自殺は当時の新聞にも出たが、それによると、持ち物の鞄の中にあったのはオーバーコートだそうである。つまり義兄が『レエン・コオトを着て』死んだというのは芥川の創作なのだ。
 
ならば、余計に思う。なぜオーバーコートでなく、レエン・コオトなのか? なぜ義兄はそれを『着て』死ななければならなかったのか? つまりは、なぜレエン・コオトが引き裂かれなくてはならなかったのか?
 
もし芥川が意図的に『レエン・コオト』に何かの意味を託したのなら、そのヒントは当然作中に織り込まれていると考えるべきであろう。実際、「僕」がレエンコオトの幽霊の話を聞いてから、義兄の自殺を知るまでに描かれた出来事には、実に「その英語の意味は何?」というエピソードが多いのだ。
 
「ラヴ・シインって何?」
「モダアン……何と云うやつかね」
「一体、何が all right なのであろう?」
 
言わずもがな、鉄道と事業失敗の話が多いのは、義兄の鉄道自殺の伏線であるが、他にもうひとつあるのが、想像上の動物の異名の話だ。書き手の『僕』はある漢学者にこう語る。鳳凰はフェニックスのことであり、麒麟は一角獣である。そして宴会場で『僕』のステーキにうごめいていた蛆虫も英語でwormであり、それもまた聖書の中の想像上の動物。
 
想像上の動物といえば、芥川は『河童』という小説を書いている。主人公が河童の国に行く話で、やはり暗い厭世観に満ちた晩年の作品である。この『歯車』にも彼が『河童』を書いているところが出てくる。芥川は、自分で描いた河童の絵も残しており、また泳ぎが得意で、容貌も河童に似ているため、実際そう呼ばれたこともあるらしく、自分を河童と同一視していた。彼の死んだ日が河童忌と呼ばれているのはそういう事情を汲んでのことである。
 
なぜレエン・コオトが引き裂かれなければならなかったかであった。
 
レエン・コオトを日本語で言うと何になるか。もはやこれ以上語る必要はないだろう。
 
 
 
 
私は芥川の晩年の私小説が好きだが、それはどうもそれらがシュールレアリズムと同系統の作品であるかららしい。同系統というのは質的に似ているというだけでなく、どうも発生血統的にも同根らしいのである。
 
ブルトンがパリでシュールレアリズム宣言を発表したのが1924年(もともとは文学中心の運動だった。ちなみに『歯車』の主人公が最初に会う旧友もパリから戻ってきたばかりであった)、芥川の晩年の私小説は、1925年末から死の1927年までに書かれている。またシュールレアリズムに影響を与えた精神分析学も、大正末期に多く邦訳が出ているのである。芥川がそれらを読んでいた可能性は大いにあると思う。
 
芥川の晩年の私小説でもっともシュールレアリズム的、かつフロイト的なのは、『蜃気楼』であろう。この作品に対し三島由紀夫は「広大な平原を舞台に描かれたダリの絵を思い出す」と言っているが、思い出すどころか、シュールレアリズム絵画の影響下に書かれたものかもしれないのだ。
 
『蜃気楼』が書かれたのは1927年。ダリがフロイトの影響を受けた作品を本格的に展開しだしたのは1929年だから、芥川がダリの影響を受けたということはありえないが、デ・キリコ、エルンスト、タンギーなどはすでに、あのだだっぴろい場所、広大な平原とも海底とも知れぬ世界に夢幻的なイメージを展開していた。当時の芥川の家には、カンディンスキーの画集や、音楽ではドビッシューなどのレコードもあったというから、キリコやエルンストの絵の複製を彼が持っていたとしても不思議ではない。特に『蜃気楼』における、広大な砂浜の点景にふたりの人物が出現するところ、あるいは広大な平原が何か幻覚を生み出すような魔力を宿しているかのようなところなど、もろにキリコ的、かつダリ的である。そういう意味では、芥川の晩年の作品とダリのシュールレアリズム作品は、初期シュールレアリズムから生まれた兄弟作品かもしれないのである。
 
しかし何より、晩年の芥川の私小説において、シュールレアリスティック、ダリ的なのは、夢の象徴性、およびオブジェの象徴性が散りばめられているところであろう。『歯車』における「レエン・コオト」の象徴性について上述したように、芥川の晩年の私小説には、非常に彼の見た夢が出てくる。『蜃気楼』においても、彼が友人に夜の砂浜で自分の見た夢の話をすると、マッチをつけて夜の波打ち際を見ていた友人は、「つまりマッチをつけるといろんなものが見えてくるようなものだな」と答えている。これは明らかに精神分析学の無意識の概念である。(もっとも夢占いというのは日本にも昔からあり、夢に何かの真実があるというのは太古からあった捉え方であろうが)
 
これら一連の芥川のシュールレアリズム的作品の嚆矢となったのは、『年末の一日』で、この掌編もまた冒頭、夢から始まっている。筋はといえば、夏目漱石のファンである友人に漱石の墓を案内するも、墓が見つからず(芥川は漱石の弟子であった)いらだつというだけの話であるが、生と死の道を探して、なかなか見つからないという芥川の晩年の苦悩が表れている。しかし最後に、ヘソの緒処理会社の荷車を「自分自身と闘うように」押して手伝うところに、彼の最後の作品創作への意志、生と死の運命に挑む最後の気概も同時にあらわれている。
 
私は今、芥川「最後の」戦いと言ったが、タイトルの『年末』がすでに、傷ましくも彼の人生の『末期』を予告しているようにも思われ、結果論とも言えないところがある。事実、芥川がこれを書いたのは死の一年半前、1925年の年末だが、その2ヶ月前に、彼は3年も続けたアフォリズムエッセイ『侏儒の言葉』の雑誌連載をやめている。この『侏儒の言葉』の連載切り上げもまた、闘う意志の表明だったのだろう。なんとなれば、『侏儒の言葉』は、後ろ向きの皮肉ばかりを並べたエッセイであるからだ。
 
侏儒の言葉』を連載していた3年間は芥川は大した小説を書いていない。芥川の作品は最初から皮肉っぽく冷笑的で、そういった小説は行き詰ったものの彼は皮肉と冷笑をやめられず、それで今度は『侏儒の言葉』をつづってきたのではないか。当然ながらそれも行き詰った。しかし新たな道をこの『年末の一日』によって切り開いたのである。上述の『蜃気楼』などは、かなり明るい肯定の方向に向いている作品であり、彼がこの作品に自信(というか喜び)を持っていたのは当然であったという気がする。この作品には、自分をおびやかす錯覚、幻覚なども『蜃気楼』に過ぎないという楽観性が漂っている。ラストなどは夫人をはじめ家族、家庭が彼に安らぎを与えている描写で終わっているのも珍しい。(夫妻の会話のバタとか、ソウセエジが何を意味しているかは言うまでもない)
 
しかし、皮肉と冷笑の気質は芥川に最後までつきまとって離れず、最後に戦いを挑んだシュールレアリスティックな新手法の作品では、逆に何者かに冷笑されている苦しみとなった遺稿小説『歯車』において、「僕はこの先を書き続ける力を持っていない」と結ばれて終結した。『歯車』を書き終わってから死ぬまでの3ヶ月のあいだには『或阿呆の一生』なども書かれているが、それは断片の寄せ集めに過ぎなかった。もはや小説の体、つまり「もうひとつの現実」にまで達することはなかったのである。
                      
                       2016年3月18日