ある幻想画家の手記

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芸術家に必要なものは感性より虚無

 芸術家に一番必要なものは何か?

それは、
 
欠損の感覚だと思う。『虚無』と言いかえてもいいかもしれない。
多くの人は芸術家に一番必要なものは「豊かな感性」というかもしれない。確かに『感性』は必要だ。しかし『感性』など早い話、誰でも持っているのである。岡本太郎が言ったように、『常識』でそれが覆われてしまっているだけの話で。
 
また『頭脳』なども芸術家には大して必要はない。小説家のモームも「小説を書くのにはそこそこの頭脳があれば足りる」と言っているし、最近ちらと見た本でも「頭のいい人、回転の速い人は小説家に向いてない」と書いてあったが、そうだと思った。小説家がそれでいいなら、画家などもっとそうでなくていいだろう。
 
『頭脳』が必要なのは、芸術家、作家でなく、むしろ評論家であろう。私は評論家の書いたものを読むたびに、彼らの頭脳に感服してしまう。文芸で言えば、全般的に言えば、小説家より文芸評論家のほうが、頭がいいと思う。作品を読んで感じたことを、文章というものに明晰にし、体系化するというのは頭のいい人のみができることであろう。するどく感じることもできるのだから、評論家が『感性』豊かなのも間違いがない。
 
 
 海峡Ⅱ 45.5×65.6㎝ 油彩
 
私は今、頭がいいから、評論家のほうが作家より上だなどと言っているのではない。両者は守備範囲も求められる才能も違うという話をしているのだ。評論家には作家を目指していたがなれなかった人が多い。なぜか? つまりは芸術家に一番必要なものである欠損の感覚、『虚無』がなかったからではないか? 虚無を持っていたのだとしても、その虚無の問題は芸術と関わるにあたって、鑑賞の段階、あるいは批評の段階で解決できうるものだからではなかったか? (それはそれでまったく結構な話ではないか)
 
芸術家における『虚無』というのは、政治的、経済的なものでは救えないもっと存在の根源的なものだ。作品なるものを創るということでしか救えない。いや、もしかしたら、それでさえ救えないのかもしれない。作家の発狂、自殺というのは、けだしその傍証である。
 
『虚無』は「才能」ではない。むしろ「災厄」と言い表すほうが正確だ。『虚無』という怖ろしいものがまずあって、それと戦うために作品が創られる。そのときに「才能」というものは付加的に現われてくるものである。一般に「あの人には才能がある」と言うとき、それは頭のよさだったり、他人が感心するような感性だったり、手先の器用さだったりする場合が多い。芸術家における『才能』なんて、作品ができてから、あとでだけ分かる類のものだ。つまりは「あるなし」を最初に気にかけること自体ナンセンスなものである。
 
そして、また『虚無』も、誰でも持っているものなのである。『虚無』との戦いは人間のもっとも根源的なものであり、だからこそ芸術作品は多くの人に感銘を与えることができるのだ。われわれはひとつ間違えたら、皆、『虚無』の世界に落ち込む可能性がある。『虚無』はある人には多くて、ある人には少ないというものではない。人間は皆、実は『虚無』の世界にさらされており、ただそれを見ない、感じないですむだけのバリケードを持っているかどうか、その差があるだけにすぎない。
 
よく、友達をたくさん持っていることを自慢し、友達の少ない人を嘲笑する人がいるが、これなども、誰でもが『虚無』にさらされていることの証拠であろう。友達が多いほどその人の人生はにぎやかであり、すなわち『虚無』を正視しなくて済む。逆に友達の少ない人、いない人は、恐ろしき『虚無』なるものに、つかったままのミジメな奴であると考えられているわけだ。「たくさんの友達」もいわば、バリケードなのである。芸術家というのは、いわばそういったバリケードを持たないので、バリケードを自分で作るしかない人種なのである。そこにはバリケードを作る喜びと知恵と悲劇と感動と、そして同時に虚無の恐怖がある。優れた芸術作品にどこか恐ろしいものがあるのはそのためだ。そういう意味では、芸術というのは常に人間最後の砦であり、芸術家はその最後の砦の番兵である。
 
こう考えてきたら、この記事のタイトルも訂正が必要だろう。つまり、「芸術家に一番必要なものは『虚無』」という言い方はおかしいのであって、人間の根源的『虚無』を多く目の当たりにせざるを得ない人間が、芸術家になるのに近いところにいるというのが正確である。もっとも近いところにいるから、なれるものでもないだろうけど。
               2017年10月22日