ある幻想画家の手記

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あの時もあの場所も過ぎ去った

きのうは、久しぶりに、むかし勤めていた会社の前まで行ってみた。近くに用事があったついでだったが。

少し、なつかしさという感興をもよおすことができるかなと思ったのだが、実は私は、むかし居た場所に行っても、なつかしいという気持ちなど起こらないことをすでに経験で知っていた。金と時間をかけてまで来るんじゃなかったと思うことのほうが多い。

そして、やはりだった。そらそうだ。もう、そこは私がかつていたのと同じ場所ではないからである。会社の人間もほとんどが変わったであろう。知ってる人ももはやすれ違っても分からなくなっているのかもしれない。もう別の場所なのだ。その場所がかつてと様相を変えていてもいなくても同じこと。あの時間はもう過ぎ去ったものだし、あの場所ももう過ぎ去ってしまったのだ。

むしろ、なつかしさよりも感じられるのは、その寂しさのほうである。いや、そんな抒情的なものではない。はっきりいえば、そこにあるのは、しらけた感覚であった。

むしろ刺激を与えてくれたのは、新しい発見のほうだった。周辺を歩いていても「へえ、ここは小さな問屋さんが並んでいる街だったのだな」とか「こんなところに一軒家があったのか」とか、気づかなかった街の姿が見えた。記憶にあるのは、昼食を買ったところ、食べたところ、夜に行った飲み屋とか、そういうものが中心で、あのとき、それ以外のものは目に入っているのに見ていなかったのである。サラリーマンというのはそういうものか。これはちょっと驚きだった。

しかし、そういったしらけも、再発見もひとつの体験であろう。それもまた、人生のその瞬間だけに確かに存在したドラマなのだ。だからこそ、私はきのう、その場所を去ろうとしたとき、「もう二度とここに来ることはあるまい」と考えていたのだ。

来るんじゃなかった、ということが再確認できただけでも、来てよかったのかもしれない。