ある幻想画家の手記

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白井晟一論~再統合を暗示するアクティヴな廃墟

 白井晟一論1.再統合を暗示するアクティヴな廃墟

 
静岡にある白井晟一の最晩年の傑作「芹澤銈介美術館」~白井自身の命名に従えば「石水館」(下図)をして、ある方がブログで『国籍不明の要塞』という表現をしていた。白井の晩年の石の建築に対しまさに言い得て妙である。
 
白井晩年の荒肌の石で築かれた建築(実際の構造体は鉄筋コンクリートで、石は化粧として張っているのだが)は、確かにカルカッソンヌのような西洋中世の城塞都市を思い起こさせるものだが、西洋中世という言葉だけでは形容しきれてないものがあることはすぐに感得できる。西洋中世の城塞都市にしては、静謐で、精妙で、繊細で、簡素で、女性的。そう、そこには日本の感性が感じられるのである。
 
私は白井晟一の作品を見ると、西洋建築のボキャブラリーが日本的感性によって再編成されているということをまず感じる。しかし白井の建築ボキャブラリーは西洋建築だけに限定されてはいない。日本建築のボキャブラリーもあるし、また近代科学技術というボキャブラリーが使われることもある。白井のボキャブラリーはペダンチックと言っていいほど実は豊富なのだ。
 
しかし、あまりに多くのボキャブラリーを散りばめた芸術作品はキッチュに堕す危険性がある。白井作品がそうならずに済んでいるのは、そこに高い抑制力が働いているからであろう。それは、省略の美学、抑制の美学、つつましさの美学と言ってもいいが、清貧、貧しさの美学と言っても間違いではあるまい。そして、それが数寄屋、利休の草庵茶室、さらにさかぼって龍安寺の石庭を生んだ日本の造形精神につながることも多く説明はいるまい。日本美の特質は、貧しさにあると言ったのは白井晟一その人であったからだ。また「デザインとは殺すこと、おさえることだ」と言ったのも彼である。「白井は石という高価な材料をふんだんに使っているではないか」と反駁も出ようが、それは流通上の話でしかない。白井の豊富なボキャブラリーが生んだ個々のエレメントは抑え込まれている。『断片』なまでに。
 
そう、それは断片としてのみ存在しているのである。白井の建築が断片の羅列というのはよく指摘されるところで、磯崎新氏はそれをマニエリスム的と表現した。下図は白井の自邸、「虚白庵」の玄関であるが、この写真などは、断片を用いた白井空間の代表的なものと言えるであろう。暗闇に浮かぶ東洋の書と、西洋の彫刻という異郷同士の断片と断片。
問題は、この断片の羅列によって表されているものが何かということである。断片が発揮する心理的作用は何か。それは全体像を暗示するということである。かつて全体があったからこそ断片は断片なのだ。
 
建築で断片といえば、何よりまず思い起こされるのは、古代石造建築の廃墟であろう。廃墟こそまさに断片である。残された数本の不完全なオーダー(列柱)は、かつての壮麗なる全体像を偲ばせる。
 
では白井の建築もまた断片であるなら、断片の持つ「全体像を偲ばせる」という機能を足がかりに解読を試みることができるのではないか。いみじくも白井がアンケートで、古今東西で好きな建築としてあげたのは「ギリシア、ペルシアの廃墟」だったのだから。
 
白井の断片が暗示している「全体像」――けだしそれは、西洋も東洋もない、過去も現在もない、すべてがひとつとなった、「プリミティヴ」な世界の全体像ではなかろうか。「プリミティヴ」は白井のよく口にしたキーワードでもある。
 
もっとも、白井の全体像に具体像はないのかもしれない。だからこそ逆に断片による「暗示」でしか表現できなかったのかもしれない。しかしそれは現在、いや永遠に仮定でとどまるにせよ、確かに感じられるものである。感じられるということはその意味で存在しているのだ!
 
廃墟はかつて存在していた壮麗な建築を暗示するが、白井のつくる廃墟は、かつてあり、そして今もあり、そして未来にもあるもの、人間の故郷たる完璧なる根源の全体像を暗示しているように私には思える。少なくとも、私にはそういう示唆を与えてくれる。私が断片の集積たる白井作品、西洋と東洋、古代と先端の共存している白井建築を見て感受するのは、忘れていたあの懐かしい全体像が確かに存在する、そのことを認識する喜びなのだ。
 
だから白井の建築は廃墟と同じ暗示的なものだとしても決して廃墟ではない。断片に朽ちてしまったものではない。むしろそれは再統合へと向かっている生きた生命である。もし白井の作品を廃墟というならそれは、過去を偲ぶ廃墟ではない、前を向いたアクティヴな廃墟と呼ぶべきであろう。
 
 
白井晟一論2.屋根、洞窟、胎内~建築の原点回帰
 
建築家白井晟一は「物を作りたければ1度プリミティヴなところへ帰れ」と再三発言している。人間根本の欲求を1度追体験しなければ創造は不可能というのだ。
プリミティヴに帰る――それは白井自身の方法でもあった。
 
つまり建築におけるもっともプリミティヴなものは屋根である。まず雨風という自然の障害を防ぐという要求に始まって建築は誕生した。屋根が壁、あるいは柱によって持ち上げられたのはのちのことであり、当初は屋根がそのまま壁の役割をも果たしていた。屋根こそ建築の第一位の部位であった。
 
白井の建築において初期から屋根が強調されていたのはそのためだ。(上図:秋ノ宮村役場)白井建築の大きな切妻屋根というのは、後期の石の建築になってからも健在である。
 
しかしこの大屋根をして白井建築の精髄とは言えないであろう。なぜなら、屋根よりもっとプリミティヴなものがあるからだ。それは白井の中期の野心作『原爆堂計画』に現れた。屋根よりももっと建築――というか、建築の根本たる外界の物理的脅威から人間を守るとものという原点であるもの。『プリミティヴ』なもの―それは洞窟である。
 
『原爆堂』(上図:断面図)は地下道を通って人工の池の只中に屹立する本堂に至る。この地下道を通るアプローチは同時期の『半僧坊計画』でも展開されており、当時の白井が固執していたものである。
 
この『原爆堂計画』において白井は自らの建築造形精神を確固たるものにした。外界の物理的脅威から人間を守るのが建築の本質であるなら、外界の物理的脅威の最たるものが原子爆弾であることも論を俟たない。
 
白井の後期の作品に石がふんだんに使われだしたのも、それが洞窟であるからではないか。つまり白井の石の建築は西洋追従主義、あるいは歴史尊重というよりは、よりプリミティヴなアプローチで達成されたものなのだ。事実、洞窟的性質は後期の作品にいろんな面であてはまる。石の広い壁面にポカリと一箇所あけられた入り口はまさに洞窟そのものである。また白井が多用するアーチ形状や楕円形の開口部にしても、組積造の技術成果であるアーチ構造の形状引用というより、洞窟のそれを模したものに思われる。白井の建築に極端に窓が少ないことも同じ理由で説明できるであろう。
 
しかし白井のプリミティヴへの掘り下げは屋根と洞窟で終わらなかった。屋根の前には洞窟があったが、洞窟の前にもまだ、人の身を、雨風や外敵から守るものとして存在していたものがあるからだ。
 
それは胎内、つまり女体である。
白井の石の建築がなぜ曲面で構成されるのか、なぜシンメトリーなのか、なぜ縦スリットの開口が多用されるのか。それが母体(女体)だからではないのか。(上図上:親和銀行本店第三期、上図下:聖キアラ館)白井の後期の石の建築にはすべて中央に池がある。これが羊水であることは明らかであろう。また、白井の内部空間は平面図的にも立体形状的にも人間の臓器を思わせるところが多い。(下図:松濤美術館1階平面図)
 
胎内回帰願望としての建築――しかし建築とは言ってみればすべて胎内回帰願望の現れである。
                         2014年9月12日