ある幻想画家の手記

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岡本太郎「傷ましき腕」論

 1.傷口としての作品

もし私は世界で一点の絵画を選べといわれたら岡本太郎の「傷ましき腕」をあげる。実は岡本さんの絵は「痛ましき腕」を除いてそんなに好きではないのだが。

事実、この「傷ましき腕」一点だけが彼の絵画作品のなかでは異質なのだ。このような写実を基底にした作品はこれだけなのである。しかし生前、岡本さんはアンケートで、自分の絵の一番手にこれをあげているし、事実これが代表作だと思う。なぜならここに彼の絵の根本的基調がはっきり現れていると思うからだ。

彼の絵のエッセンス、それは「傷口」だと私は思う。私は彼のどの絵を見ても生々しい傷口といった印象を受ける。彼は「流れるという感じが好きだ」「赤が好きだ」と言ったが彼の描く流れる赤色が私にはいつも流血に見える。生々しい原色もまるで切り開かれた人体、つまり傷口のように見える。比喩でなく鼻孔に生臭い匂いさえ感じるのだ。また彼の彫刻作品によく見られる尖った形状もまたそれが流血を誘う剣先を喚起せずにはいられない。

傷口、血は岡本のよく使った語彙でもある。「血を流しながらにっこり笑おう」 「芸術家の作品は傷口なのだ」 また彼は「芸術はいやったらしいものだ」と言ったがおそらくは、誰かに自分の作品を「いやったらしい」と言われたのであろう。事実岡本の作品は「いやったらしい」。それは傷口だからではないのか。岡本作品の傷口の生々しさは晩年のゴッホの絵にも共通するものがある。

『傷ましき腕』に限らず、芸術作品の美しさとは、とどのつまり傷口の美しさなのかもしれない。

 

2.『傷ましき腕』の元になった作品

この前、岡本太郎に関する評論本を読んでいたら、太陽の塔は、磔にされたキリストを模しているという説があった。岡本太郎自身「キリストはいい奴だ。しかし哀しそうな顔をしているのがよくない」と発言している。岡本がイエス・キリストに共感を抱くだろうことは、彼の著書に親しんできた人なら理解できることであろう。

一方で太陽の塔の真ん中についているダンゴ鼻の顔、岡本のトレードマークのひとつであるこの顔は、岡本自身がその芸術的価値を発見したと主張する縄文土器土偶からとられていることはすでに何人かの人が指摘している。(下図)

また、縄文土器と並んで日本の芸術作品として太郎が高く評価している尾形光琳と太郎作品にも類似点がある。太郎の戦後直後の代表作『森の掟』は、明らかに『紅白梅流水図』の影響がその構図に明白である。(主題的にはピカソの『ゲルニカ』の影響が濃いが)

また、太郎最大の絵画作品『明日の神話』は『杜若図』との類似が見て取れる。(下図)

これはただ単に横長という相似だけではない。『杜若図』のリズムが『明日の神話』では背景の左から右にかけて大きくなるように並んでいる両目に反映されている。また『杜若図』の葉のとんがりは太郎の造形ボキャブラリーである尖ったツノに影響を与えたかもしれない。

ところで『傷ましき腕』にも、そのような誕生の触媒となった作品があるのではなかろうかと思うのだ。 

それは『モナリザ』ではないかと思う。

類似点。まずはその互いの腕の形態である。モナリザは腕を握り締めてこそはいないが、その右手の角度は『傷ましき腕』とほぼ同じである。その二の腕の袖の皺は、『傷ましき腕』では輪状の傷となっている。またモナリザの左腕のほうも『傷ましき腕』に形態が似ている。

第二に全体の雰囲気である。輪郭をぼかしたスフマート技法が使われているのも共通だが、絵の上半分が、モナリザは緑(あるいは元は青か)で、『傷ましき腕』は群青色と、どちらも寒色、下半分がどちらも赤褐色、暖色である。

そして何よりも、母(あるいは母なるもの)への想いが込められているのが同じである。

レオナルド・ダ・ヴィンチの本当の自画像』と題したブログでも書いたとおり、『モナリザ』は、幼くして生母のもとを離れて暮らさなくてならなかったレオナルドの母への愛の希求が反映されていると見られている。いやそんなフロイト的理屈を引っ張りだしてこなくても、『モナリザ』には誰しも母性を感じるであろう。

『傷ましき腕』もそうなのである。この大きな真紅のリボンは、母親のつけていたものの思い出として描かれていることがタロー自身の口から語られている。『傷ましき腕』はタローが25歳のときパリで描いたものだが、当時のタローの絵においてリボンは頻出のモチーフであった。

タローは18歳でパリに留学している。当初はそのままパリに骨をうずめるつもりだった。それが1940年、ドイツ軍がフランスに侵入してきたので、11年のパリ滞在を切り上げて日本に帰ってきた。帰国の理由のひとつとしてその前年に母がなくなったこともあったと書かれている。

タローはリボンに遠い母国の母を見ていたのだ。

『傷ましき腕』は、傷つけられる自分と、童女のように純真であったため傷つけられていた母とを同一視したものではないのか。(傷つけられていた母という表現は、タローが母について書いた文章を読んだ人なら分かるであろう) いや、そこらの内容的な分析は野暮であろう。

とにかくタローは当然、パリで生活しているときにモナリザの実物を見ているだろうから、この永遠の母(女)像ともいえる絵画に、霊感を感じたということは、ありえると思うのである。本人は意識していたのか無意識だったのかは知らないが。いや、それもどうでもいいことか。普遍性のある作品というのは、永遠であり、それゆえ次の作家たちに新しい霊感を与え続けて生き続けるのだ、ということを認識しておけばよい。

 

3.なぜ岡本太郎は写実的幻想画を『傷ましき腕』一点しか描かなかったのか

ところで、先述したように、太郎においてこのような写実的幻想画はこれ1点だけである。なぜ太郎は、写実的幻想画を一作だけ描いて終わってしまったのだろう?

確かに、『傷ましき腕』の以上の作品はそうそう描けるものではない。それほどまでに完成されている。ならば、太郎がこれ一作しか写実的幻想画を描かなかったのもむべなるかな。実際、太郎にとっても『傷ましき腕』は会心の作で、パリ時代このあとに「幸なき楽園」などの大作は描いているものの、絵画制作に行き詰まり、絵筆をなげうって、パリ大学で著名な社会学者マルセル・モースのもとで民俗学を学びはじめた。やはり『傷ましき腕』で彼はひとつの頂点に達してしまったという他はない。

その後、太郎は、第二次世界大戦の勃発によりドイツ軍がフランスに侵攻したのでやむなく帰朝、すぐに徴兵され中国戦線へと配される。そして戦後、抑留時代を経て帰国するも、その再出発時には、太郎のキャンバスの上にはもはや写実的幻想が現れることはなかった。いや、それどころか戦後、師モースを語るインタビューで「私は画家にはなりたくなかった。思想家になりたかった。マルセル・モースに学んだのだから」と言ったというところを見ると(これは又聞きで私自身はこの太郎のインタビューを見たことがないのだが)第二次世界大戦がなければ、太郎は本当に思想家になっていた、つまり画業をやめていたかもしれないのである。

(上図)『傷ましき腕』パリ時代のオリジナル(現存するのは戦後の再制作である)

実際、太郎の戦後の絵は、内面の幻想の表出というより、彼自身の文筆活動における主張と同じく、封建的な日本画壇への挑戦、挑発、反動といった側面が強い。事実、1950年ごろの展覧会パンフレットでは「私は展覧会に出すための絵しか描かなかった」と書いており、また、パリ時代も含め晩年まで、絵画作品は1年に4,5枚しか描かないと、ある対談で発言している。(1960年代のカリグラフィー的な表現のときは作品数が多かったように見受けられるが)現実、残された絵画作品数を見ればこのカウント数はほぼ事実だろう。

戦後の太郎の絵画は「外向的絵画」とでも呼びたいものだ。けだし戦後の太郎にとって絵画は、武器であった。このような作品の存在は彼なりに、また、旧態然とした日本の芸術界にも老化防止剤として必要なものであったのだろう。

しかし芸術作品とはそのように政治的なものであろうか? 太郎は戦後、文筆活動にも力を入れ、それはまた力強く、優れていて、太郎の絵画より文章のほうがいいという人も多いほどだが(私も『傷ましき腕』をのぞけばそう思うひとり)、しかし真の芸術作品を創っているとき、作家は言葉では語らないものではなかろうか? 語る必要が無いのである。

芸術創作は内側に向かっているものだ。太郎が性格的に外向的だったのはあきらかで、そのためか画家としてよりもデザイナーとして高く評価されることが多い。これまた私も同意見で、特に図案デザイナーとして素晴らしいと思う。こんな外向的太郎が、内向的になったのは人生においてごく一時のときだけであり、そのときに『傷ましき腕』が誕生したのではなかったか。それは太郎が何度も書いている疾風怒濤の青春時代、ついに「危険な道をとる」と決意した25歳のときだった。

私は『傷ましき腕』1点だけが『写実的幻想画』と言ったが、これは、1点だけの『内向的絵画』と言い換えてもよい。内向的であるからこそエネルギーがそこに凝縮されている。それだけで独り立ちしている。(これは太郎の言葉である)

太郎にとっても『傷ましき腕』は奇跡の一作ではなかったかと思うのだ。

                        2013年12月19日